FC2ブログ

タイトル画像

両総の勇・上総氏・千葉氏

2019.11.20(07:00) 264

**千葉・上総一族

**前章(続)

   坂東における有力平氏勢力の一角が崩れたという事である。   
 親正の軍事動員力は坂東屈指で、藤原氏の貴種性は他の追随を許さぬものがあった。 親正が平家と二重の姻戚関係を結んでいた事は、前述した通りである。 親正の敗北は都の平家にとって大きな衝撃であったに違いない。

   この戦いは、千葉氏と藤原氏との約半世紀にわたる相克に終止符を打つものであった。  下総守藤原親道による相馬御厨・立花郷の収公以来、千葉氏は藤原氏に絶えず在地領主としての発展のみならず、その存在すらも脅かされ続けてきたのである。
  この戦いの勝利は単に藤原氏の存在を消滅させたばかりでなく、下総国内の同族武士団に対する族長権の確立を意味するものでもあった。  千葉氏は、親正及びこれに同調した同族武士団の遺領を継承する事で、ようやく名実ともに下総国第一の勢力を確立したのである。

**頼朝参向・・・・

      千葉氏の頼朝参向の時期と場所について「吾妻鑑」は、「九月十七日、下総国府に於いて」 とするが、それでは千葉氏の本拠千葉庄を千葉氏一族との参会なしに通過した事になってしまう・・・・・。 当時の状況からみて、藤原親正の千葉庄襲撃の際、成胤がこれに対処している事から見ても、上総国で参会した方が自然であろう。  

   千葉庄襲撃(結城浜合戦)の後、上総から千葉館へ頼朝を迎え入れたと思われるが・・・、あるいは、頼朝は合戦を避けて上総から海路北上し、千葉庄の外港でである結城浦に着いたのであろうか・・・・?
  結城浜合戦で千葉館が焼亡していたとしても、頼朝が千葉庄に立ち寄らずに、直接下総国府に赴いたとは考え難い、「吾妻鑑」の記述に国府より千葉に近い鷺沼(習志野)に宿泊し、逗留したと記されている。

   ところで、千葉氏と同様に上総介広常の頼朝参向についても「吾妻鑑」の記述は、九月十九日に広常は隅田河辺に陣営を構えた頼朝の許に二万の大軍を率いて参上し、頼朝が大喜びすると予想していたところ、思いのほか遅参を咎められた事で広常が心服したという話が伝わる。

   広常の人物については「吾妻鑑」などによると 「大勢力を率いての、不遜な態度」 が強く表れ尊大であったらしい。  たしかにそういう面は有ったかも知れないが、これは寿永二年(1183)の暮れ、頼朝が梶原景時に命じて広常を誅殺した事を正当化するための曲筆が、かなり働いていると思われる。 「吾妻鑑」は幕府の公的歴史書とは言っても、編纂物である。  他の史料に拠れば、頼朝に参向した広常は下総に出陣する際し、頼朝の前に跪いて先陣を所望している。

   頼朝が広常を誅殺したのは、変な言い方だが、広常が頼朝に思い入れすぎた為であろう・・・。 広常はその強大な武力によって鎌倉政権樹立に大きく貢献した。  その事から政権樹立後も、自分がいなければ鎌倉政権の存続は無いかの如く思い込み、自分が常に頼朝の家人中のナンバー・ワンとして振る舞いかかったのではなかろうか?

   つぎに、広常が頼朝に対して不遜と思われるような態度をとる事が出来た事情として考えられるのは、広常の父常澄が頼朝の父義朝の庇護者であったという事である。  義朝が少年期を上総で過ごし、「上総曹司」と呼ばれていた事は先にレポートした。 義朝が上総氏の元で養育され始めた頃、まだ、常澄の父常晴も健在だったのであろう。 そうすると、広常が源氏に対して「公私ともに三代の間、下馬の礼を取った事が無い」 と言ったというのも頷ける。
  弟でさえ家人の枠に閉じ込め、武家社会に於ける自己の絶対的権威の確立を大きな政治課題とする頼朝にとって、広常はどうしても抹殺しなければならない存在だったのである。

  上総氏の滅亡は頼朝の意図した通り、彼を頂点とする鎌倉政権の家人組織に一応の安定をもたらした。  そして坂東武士団の前途には、この鎌倉の政権を支えながら、その方向を模索していくという新しい局面がなされる事になる。

 上総権介広常誅殺の地とされる朝夷奈切通し大刀洗付近
切通し・石塔
朝夷奈切通し
梶原神社・景時供養塔  (鎌倉市・梶原)
梶原・御霊神社
梶原景時・供養塔

次回へ

令和元年・己亥・丙子・辛酉
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


歴史雑学 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<両総の勇・上総氏・千葉氏 | ホームへ | 両総の勇・上総氏・千葉氏>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する