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両総の勇・上総氏・千葉氏

2019.11.30(07:00) 266

**千葉・上総一族

**本宗千葉氏の分立

   千葉氏の本宗は、鎌倉時代末期にモンゴル来襲(合戦)により、事実上、下総千葉氏と鎮西千葉氏の二流に分立し、千葉氏武士団の惣領職は千葉介胤宗の子貞胤に継承され、宗胤の子胤貞(鎮西)は一族的立場に置かれた。

   このころ、朝廷では天皇の位を大覚寺統と持明院統の二つの系統で交替で継承されていたが、大覚寺統の後醍醐天皇が位に着くと、帝は朝廷権力の回復の為二度に渡って討幕を計画したが、何れも失敗し、隠岐の島に流された。
  この時の征西軍に千葉氏は千葉介貞胤、千田胤貞、相馬左衛門四朗尉等が加わっている。  貞胤は天皇の護送の任にあたり、乱の首謀者の一人であった大納言藤原師資の身柄を預り、下総に帰還している。

   その後、元弘三年(1333)五月、新田義貞が討幕の為に挙兵すると、新田軍に呼応して出陣し、金沢貞将の軍を破り、六浦から鎌倉に侵攻した。 幕府は倒れ、建武の新政府が樹立されたが、北条高時の子時行が信濃で挙兵、鎌倉に侵攻すると、足利尊氏は鎌倉に出兵し、新政府に反旗を翻した。  これに対して朝廷は新田義貞に尊氏の討伐を命じたが、貞胤はこの軍に参戦している。

    建武二年(1335)正月、下総国では胤貞系と守護職の貞胤系との間で衝突が繰り返されていた。 新田義貞軍が箱根峠で戦闘を交えると貞胤が反足利軍、胤貞が足利軍に分かれて戦った。 しかし、翌年には後醍醐天皇と足利尊氏の和睦が成立する。

**室町幕府(関東公方)

    建武の新政府が倒れ、室町幕府が成立すると、関東には鎌倉府がおかれた。 足利尊氏の子足利基氏が関東管領に任じられた。  管領には氏滿・滿兼と続いたが、滿兼の代には京都の幕府に倣い、長官を公方といい、執事を管領と云う様になった。
  氏滿・滿兼の両者を補佐したのは関東管領の犬懸上杉朝宗であった。  公方・滿兼の死後、管領朝宗は引退。  新公方は足利持氏となり、管領には山之内上杉憲定が就任したが、病の為、犬懸上杉氏憲に交替した。  氏憲はかねてから関東公方の持氏とは不和であった事から、ある事件を契機に管領職を辞任した。

   両者の対立が深まる中、京都の政情とも連動し、「上杉禅秀の乱」が起こった。   この乱に、氏憲方と姻戚関係にある下総国千葉介兼胤、武蔵国守護代長尾氏晴、上野国の岩松滿純、下野国の那須資之、甲斐国の武田信滿等、持氏に不満のある広範囲の武士たちが従っていた。
  対立の原因は、関東公方と関東管領上杉氏との対立、守護大名と守護代層の対立等が絡んだものと言われている。

   さてこの頃、千葉氏惣領は貞胤から氏胤、満胤、兼胤と継承されたが、「上杉禅秀の乱」 には千葉介兼胤が上杉氏憲の娘を室としていた関係から兼胤と父滿胤が氏憲方として出陣したが、積極的に戦わず所領は安堵された。

    永亨九年(1437)、持氏は嫡子の賢王丸が元服の際、将軍の偏諱を受ける習慣を破って義久と命名したが、これを諌めた憲実は身の危険を感じ、上野国に退いた。  対して、将軍義教は、今川範忠、武田信繁、小笠原政康、上杉持房、朝倉孝景等の大軍を鎌倉に追討軍として派遣した。
  この時期、千葉氏惣領は千葉介兼胤から胤直に継承されていた。  胤直は「永享の乱」 に際し持氏に従って出陣し、持氏が憲実と対立した際には、和睦を勧めたが、不調に終わり下総国に帰還。  憲実に寝返って鎌倉永安寺の持氏を攻めている。

   千葉氏は室町以降も下総守護職を継承し、伝統的な権威を背景に、一定の統制力を保持していた。 しかし、その勢力は永享の乱以降、急速に衰えはじめ、実権は有力家臣であった原氏や円城寺氏に移っていった。
関東管領・上杉朝宗・氏憲鄭跡  (鎌倉市・浄明寺)
上杉朝宗・氏憲邸
千葉氏本宗家・系図  (13世紀後期)
本宗13世紀
千葉氏本宗系図

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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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