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両総の勇・上総氏・千葉氏

2019.12.05(07:00) 267

**千葉・上総一族

**終章

   分裂を繰り返しながらであるが、両総の一族は天正十年(1582)、豊臣秀吉が着々と全国統一の道を進めている頃、戦国・北条氏(後北条・小田原北条)に属していた。   

   北条氏と徳川氏との間は沼田城の帰属問題で紛争中であった。  沼田領を先祖の墓地とする真田氏(徳川)は、和睦の条件であった北条氏への全面割譲に反対し、沼田領の三分の一の領有を認めさせた。 残り三分の二を領有する事になった北条氏直はこの所領と沼田城を叔父北条氏邦に与え、沼田城にはその家臣・猪俣邦憲を入場させていた。   その邦範が、真田氏の挑発に乗って、支城の名胡桃城を攻めてしまった・・・。 かねてから、北条氏討伐の機会を覗っていた秀吉はこの事件を口実に北条氏討伐を決定したのだ・・・・・・。 

   豊臣軍は先鋒の徳川家康の三万、東海道方面軍十四万、北陸・信濃方面軍三万二千余の軍勢で、沼津に着陣、秀吉は着陣と同じくして、北条方の前線基地であった山中城と韮山城の攻撃を開始した、韮山城は約三か月間持ちこたえたが、山中城は約半日で落城、守将の北条氏勝は本拠地の鎌倉・玉縄城に逃れた。
  北条軍の前線基地であった山中城が落城すると秀吉軍の本隊は箱根を超え、箱根湯本の早雲寺を本拠として小田原城を包囲した。

   北条氏と豊臣秀吉との対立が深まりつつある頃、千葉介胤富の子邦胤が本佐倉城において家臣によって殺害されるという事件が起こった。 残された史書に、家臣の桑田万五郎によって殺害されたという記事があり、邦胤急逝の原因が千葉氏内部の抗争によるものであった可能性を窺わせる。
  邦胤の死後、家督を継承したのは邦胤の子重胤であった。 しかし、千葉氏の実権を掌握したのは前記の状況から重臣の原胤栄やその子胤義であったと考えられる。

   この時期の千葉氏の勢力については、小田原北条氏の豊臣秀吉来攻を予測した動員兵力数によれば、佐倉城の千葉介三千騎、臼井城の原二千騎、小金、高木(城)の700騎、相馬100騎とあり、千葉氏の総動員兵力は5800騎とされている。
  この兵力から推定すると下総国の大部分は千葉氏によって支配されていたものと考えられるが、そのうちそのうち千葉介の兵力は3000騎とされており、原氏、相馬氏等を除いた下総の軍勢は千葉氏に纏められていたものと考えられる。 しかし、この3000騎は千葉氏の直属の部隊ではなく、横芝城の井田氏や中島城の海上氏などの諸豪族の連合体と考えられており、重胤の実質的な直属部隊はその一割から二割であったものと推定される。
  重胤が小田原城に入城した時期は不明であるが、後見人である原胤義に伴われて小田原城に赴いたと考えられる。  

   秀吉による小田原城の攻撃は比較的穏やかで、大きな戦闘は無く100日間の籠城の結果、北条氏直は降伏を決意した。  この結果、氏直の叔父氏政・氏輝が責任を取って自刃する事で小田原城は開城され、戦国北条氏(後北条・小田原北条)は滅亡する事となった。  小田原城に籠った千葉氏本宗は下総の所領を没収され、当主の千葉介重胤は江戸にて病死したと残る。 子は無かった。

   こうして平安時代の末期に成立し、中世関東の名族として重きをなした千葉氏は滅亡した。  しかし、下総国には一族の豪族の多くが帰農し、その他の有力者として千葉の近世社会に大きな影響を与え、今日の千葉市や千葉県内市町村の発展に大きく寄与した。  

千葉本宗家は、千葉利胤─胤富と継承されるが重胤で滅亡する
本宗13世紀
秀吉・小田原攻撃の本拠地となった早雲寺・山門    (箱根・湯本)
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無血開城した小田原城天守
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令和元年・己亥・丁丑・丙子


       ◆■◆次章~戦国北条氏を予定しています◆■◆
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