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戦国北条氏・五代

2019.12.15(07:00) 268

**戦国大名・北条一族

**伊勢宗瑞

   本名は、伊勢新九郎盛時と言われ、この説が有力とされている。
出家後に称した法名が「宗瑞」 である。 当時、宗瑞は、領国支配等の為に発給した文書にも「宗瑞」 の法名で署名しているように、彼が正式に用いた名は「宗瑞」 であった。

   宗瑞の出自については、江戸時代に既にはっきりしていなかったようで、諸説が混在する。  備中伊勢氏説・京都伊勢氏説・伊勢素浪人説等があり、生国についても多説ある。  これらは、江戸時代の諸説を基に研究者によって整理されたものと考えられる。
  現在では、備中伊勢盛定の次男伊勢新九郎の後身で、母は伊勢氏本宗家の伊勢貞国の娘とする説が有力とされる。

    宗瑞は、通説では永享四年(1432)生まれとされている。  これは宗瑞の享年を八十八歳とする記載から逆算したものであるが、これでは宗瑞が盛定の子、という系譜関係が成り立たなくなる。
  江戸時代に成立した各種の北条氏の系図や史料には宗瑞の年齢の記載は一切見られない。  それらの系図や史料には宗瑞の子氏綱以降の歴代については享年の記載は見られるが、初代の宗瑞のみ享年に関する記載がない。   この事は、既に江戸時代前期に宗瑞の年齢が、その子孫でも不明となっていた事を示している。 

**宗瑞の生年を推測する 

   戦国北条氏を扱った比較的信頼度の高い軍記物に「北条五代記」 がある、その記載の中に 「宗瑞は子年生まれ」 とする記載が見える・・・・・。この子年生まれという記載が重要で、確たる生年が不明の為、生まれの干支のみが伝承された可能性が想定され、むしろ、事実を伝えた可能性は高い。
 享徳年間に最も近い子年は、康正二年(1456)、他に宗瑞の年齢を特定できる材料が見られないので、軍記物という所伝ではあるが、あくまでも推測として宗瑞の生年は康生二年とする説を前提にレポートを始める。

    通説からは二十四歳下回り、その享年は六十四歳であったと推定される。  この仮説に基づいて、以後の宗瑞の動向を照らし合わせていくと、年齢的に無理のないものとなる。

**今川氏親・家督継承

     宗瑞の父伊勢盛定は、伊勢氏の一族で備中国荏原郷(岡山)等を所領とした備中伊勢氏の庶子で、本宗家の伊勢貞国の娘、すなわち貞親の姉妹を妻としていた。 そのため、備中伊勢氏の庶子とはいいながらも、本宗家と極めて密接な関係にあった。

    盛定ははじめ新左衛門尉、次いで備中守、備前守を称した。  備中守の受領名は、本宗家の子弟など伊勢氏では本宗家に次ぐ政治的地位にある人物が名乗っており、この事から盛定が、本宗家にとって重要な政治的位置を占めていた存在である事がうかがわれる。 これは盛定が、貞親の義弟であったことに依っていよう。 そして、盛定の後の備中守の受領名は、貞親の弟貞藤に継承されている。
戦国北条氏墓所(五代)・・・・・箱根湯本・早雲寺
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備中伊勢氏関係系図
備中伊勢氏系図

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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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コメント
岡山県井原市の法泉寺に平成29年8月と9月にお参りしました
法泉寺には北条早雲(伊勢新九郎盛時)と父で備中高越城主の伊勢新左衛門盛定の墓(供養塔)がありました
住職が早雲直筆の禁制と早雲寄進の摺り袈裟を見せてくださいました
【2020/06/06 10:40】 | あっくんパパ #rHynAHjc | [edit]
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