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戦国北条氏・五代

2019.12.25(09:00) 271

**戦国大名・北条一族

**伊豆平定・戦国大名へ

    宗瑞の伊豆乱入は、今川氏や上杉定正の協力を得て行われた。  今川氏からは、駿東郡の国衆である葛山氏らが動員された。 葛山氏は、同郡中部の葛山城(裾野市)を本拠に同郡中部から南部を支配する国衆で、今川氏に従属していた。
  宗瑞は、この葛山氏の娘を妻の一人としているから、両者は親密な関係にあったとみられる。 この事からも伊豆乱入は、宗瑞単独の行動ではなかった事が判る。 それはあくまでも、今川氏の軍事行動であった。

   伊豆に乱入した宗瑞は堀越御所を攻略したとみられ、足利茶々丸を伊豆大島に追放し、伊豆への進出を果たしている。 さらに韮山城に移り、同城を本拠と定めた。  これは、伊豆国主堀越公方足利氏の没落と、それにかわる宗瑞の登場を明確に示す事例であった。
  この後、宗瑞は伊豆国主としての地位を獲得し、いわゆる戦国大名への仲間入りを遂げた。

   しかし、伊豆一国の平定は、直ちに達成されたものではなかった。  宗瑞の乱入で滅亡し、伊豆平定もわずか一か月で遂げられたとされているが、その後も国内には茶々丸方勢力が残存しており、その抵抗は激しく、明応六年までは国内は戦乱状態が続いたとされる。  
  一方、茶々丸もその後の生存が確認されている。  一旦は国外に逃亡するが、その後,山之内上杉顕定・甲斐武田信縄の後援を得ながら、武蔵・甲斐郡内に居留しており、伊豆奪回の機会をうかがっていた。 しかし、明応七年(1498)茶々丸一族は宗瑞の攻撃により甲斐で滅亡している。

   宗瑞は甲斐に侵攻、堀越公方勢力の討伐に成功、乱入以来六年の歳月を費やした末、伊豆一国を平定に成功したのである。

**小田原城攻略

   宗瑞の小田原城(城主・大森氏)攻撃の具体的状況は、よく解っていない。  軍記類に観られる、軍勢を鹿狩りの勢子に見せかけた話や、千頭の牛の角に松明を結び付け大軍に見せかけた話は何れも創作と考えられている。

   大森氏は扇ヶ谷上杉氏の有力与党の一人であったとみられるが、宗瑞は明応三年以来、一貫して扇ヶ谷上杉氏と同盟関係にあり、その関係は永正五年(1508)頃まで続いている。

   一方の大森氏は、永正元年には山之内上杉氏方にある事が確認されている。  従って、扇ヶ谷上杉方である宗瑞による大森氏(小田原城)攻略は、大森氏自身がその後に山之内上杉氏方に転じていたので、宗瑞は扇ヶ谷上杉氏の了解のもとに攻略したとしか考えられない。
  大森氏が山之内上杉氏方に転じた時期などは明確ではないが、明応五年に小田原城「自落」 という史料が見える・・・・。小田原城が自ら落城、すなわち開城した事を示している。    これは城主大森氏が山之内上杉氏に従属した事を意味している可能性が高い。  大森氏が離反した為に、「西郡一変」 という事態になったとみると、一連の展開の整合性が見えてくる。  大森氏の山之内上杉氏への帰属は、この山之内上杉氏方による小田原城攻撃の結果ではなかろうか。 いずれにせよ、この後に宗瑞は小田原城を奪取し、大森氏を攻略することで相模西部の経略を遂げ、相模への進出を果たした。
  前述したが、明応五年七月に山之内上杉顕定が小田原城を攻撃した際、宗瑞から扇ヶ谷上杉氏に対し援軍として派遣されたのが弟の弥次郎であった。  この戦いで宗瑞は片腕であった弥次郎が戦死したとみられてきた。  しかし、翌年に宗瑞が発給した文書の中に長年にわたる籠城を賞する証文に「定面弥次郎・大道寺侯」とみえる、これにより翌年の生存を確認することが出来る。
  そこでは宿老の大道寺氏とともに、大見三人衆への取次を勤めている。 大道寺氏よりも先に記載されているから、弥次郎がまさに宗瑞の一門として、家中に於いても高い地位にあった事が判る。

   扇ヶ谷上杉氏への援軍の大将を務めた事と共に、弥次郎は、まさに宗瑞の片腕としての役割を果たしていたとみられる。 しかし、その後、弥次郎に関する史料は全く見当たらない。 没年や法名も不明である。
小田原城・箱根口門跡
小田原城箱根口
小田原旧城下・万町付近
DSCN5410.jpg
戦国北条氏・初代期系図・・・・宗瑞(盛時)の並びに擦れていますが弥二郎の名が見える
戦国北条氏初代期
   
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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