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戦国北条氏・五代

2019.12.30(07:00) 272

 **戦国大名・北条一族

**関東を転戦

   宗瑞は、明応七年(1498)に足利茶々丸の討伐に成功して伊豆平定を遂げ、文亀元年(1501)までの間に小田原城を攻略して、相模への進出を遂げた。  しかし、ここで確認しておきたいのは、通説のように、宗瑞にとって小田原城奪取が当初から相模経略を念頭に置いての行動であったのかという事である。

   六年の歳月をかけ、ようやく伊豆一国の平定に成功したのが明応七年の事であるが・・・。  宗瑞が関東で軍事行動を行ったのは伊豆乱入の翌年、明応三年が初めてであった。  宗瑞は扇ヶ谷上杉定正の要請を受けて相模・武蔵に出陣しており、九月には武蔵久目川(東村山市)に着陣し定正軍と合流している。

   それより以前に、定正方は山之内上杉氏の家宰惣社長尾氏の重臣矢野氏が守備する東郡玉縄要害(鎌倉市・玉縄)を攻略している。  これらは相模の扇ヶ谷上杉氏勢力による行動とみられるから、そこに宗瑞が加わっていた可能性はあるが、宗瑞のみの行動ではなかったであろう。

   宗瑞は相模・武蔵に出陣した後、甲斐・遠江・三河へ侵攻している。  何れも今川氏の軍事行動という性格であった。 また関東への出陣についても伊豆国主としての独自の軍事行動というよりは、今川氏と共に参戦しており、援軍としての主体はむしろ今川氏親におかれていた事から見ると、やはり今川氏の軍事行動の一環としての性格の強いものであったと思われる。
 宗瑞の伊豆乱入自体がそうした性格を有していた事を思えば、その後の甲斐への侵攻、相模・武蔵への出陣も、茶々丸の与党勢力である山之内上杉氏・甲斐武田氏との対戦という事から、伊豆平定に伴う行動であったといえ、決してそうした性格を逸脱するものではなかった。 したがって、扇ヶ谷上杉氏から離反して山之内上杉氏に帰属した大森氏の攻略を遂げた小田原城奪取、すなわち相模西部への進出も、茶々丸追討、もしくはその余波の範囲内の行動であったと考えている。

   大森氏を追放した後、直ちに大森氏及びその被官・同心の所領を収公し、それを自らの直轄領、家臣らの所領にしたとみられる。 この家臣らへの所領の配分状況を推測する上で有力な材料となるのが「北条家所領役帳」である。 
  大森氏の所領のうち、代表的なものは、本城膝下の小田原と苅野荘(南足柄市)であろう。 小田原は、小田原城の城付領的性格を有していたとみられ、宗瑞も同城を直接管轄したであろうから、同様に城付領的なものとして、その直轄領とされたとみられる。 
 ただし、宗瑞は末子の菊寿丸(幻庵宗哲)に箱根権現領(箱根町)400貫文の知行を認めている。 

   一方、苅野荘は1000貫文という知行高で、一括して宿老松田氏に与えられた。 「役帳」において松田憲秀の所領は筆頭に挙げられているので、同所が松田氏の本領という事が判る。 「役帳」において、単一の所領で1000貫文の知行高を持つ者は極めて少なく、西郡に於いて苅野荘は卓越した知行高にあることを見ても、付与された松田氏が、その後の西郡支配において極めて大きな役割を担っていた存在であることが覗われる。
  レポート、少しずれましたが、外れたついでに松田氏に付いて一篇、この松田氏の出自については、通説では西郡松田郷(松田町)を本領とする国人松田氏とされているが、他の史料から備前松田氏の一族松田盛秀(憲秀の父)・康定兄弟が国人松田左衛門尉を訪ねて下り、宗瑞・氏綱(宗瑞嫡男)に仕え、のちに盛秀は左衛門尉の名跡を継承したと記されている。 従ってこの松田氏は相模国人の出身ではなく、室町幕府奉行衆でもある備前松田氏の出身であった事は事実と考えられる。

   この松田氏は以後、北条氏家臣の中でも筆頭に位置し、遠山氏・大道寺氏とともに北条氏の一門に準じる「一族」 という最高位の家格を与えられた。 松田氏が西部に於いて極めて重要な位置にある苅野荘を本領として与えられたのは、政治的地位と密接に関連していると考えられる。
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戦国大名・北条氏・・・・初期系図
戦国北条氏初代期
宗瑞末子・宗哲 ・・・・次代系図
初代期兄弟

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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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