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戦国北条氏・五代

2020.01.05(09:00) 273

**戦国大名・北条一族

**変化する相模西部の領主

   相模西部における、長享の乱以降の動向については明確ではないが、おそらくは内乱の過程で多くは没落し、所領は扇ヶ谷上杉氏や大森氏の支配に帰し、さらに大森氏の没落後は、宗瑞の支配に帰したとみられる。
 「役帳」 において、松田氏の本領・松田郷・惣領分138貫文が遠山綱景の本領で、他に庶子分30貫文が北条宗哲、西分14貫文が松田康隆の所領となっている。  また、河村氏の本領であった河村郷(山北町)は、219貫文が松田康隆の本領で、他に50貫文が田中助八郎の所領となっている。   

*松田康隆については後述する

   遠山氏に付いては明らかではないが、室町幕府奉公衆の美濃遠山氏の一族の出身で、それが堀越公方奉公衆を経て宗瑞に仕えた、という経緯が推測される。  宗瑞の家臣として最初に確認されるのは、永正三年にみえる遠山隼人佐直景である。  宗瑞の伊豆乱入以来から十年も経たない事であるから、彼が北条家臣・遠山氏の初代にあたると考えている。
   一方の松田康隆は、宗瑞の西郡進出にあたって、大きな役割を果たしたことは、軍記類で広く伝えられている。 松田氏はその功績によって宗瑞から河村郡を与えられ、同所を本領としたとみられる。 いずれにせよ、他の知行人をみても、同郷が大森氏没落後に宗瑞によって収公され、改めて家臣らに配分された事は間違いないと思われる。

   宗瑞の西郡進出以前から同郡に本領を有していた家臣、すなわち西郡進出に伴って宗瑞に家臣化した、いわゆる旧勢力出身の家臣と見られるのは、松田康隆の他に篠窪(大井町)を本領とする篠窪氏、加茂宮郷(小田原氏)を本領とする加茂宮氏が確認される程度である。 
  松田康隆の総知行高は289貫文余、篠窪一族の総知行高は268貫文余という具合に、西郡全体の知行関係から見ると、その比率は極めて低い。このことは宗瑞の西郡進出以降、そのまま存続した領主は殆どいなかったことが推される。

   これに対し、板部岡・南条・藤田・石巻・桑原・遠山・島津・小幡・太田・笠原氏など、西郡進出以前からの譜代家臣の本領の存在が多く確認される。  すなわち、宗瑞は群域の大半を収公して多くを直轄領としたほか、伊豆進出以前からの譜代家臣、伊豆進出以後に家臣化した堀越公方奉公衆や伊豆出身の家臣らに、新恩地として与えたとみられる。   
  大森氏の没落、宗瑞の西郡進出は、西郡における領主層の総入れ替えともいうべき、大規模な変革をもたらしたと言えよう。
関東管領・扇ヶ谷上杉邸跡・・・・(鎌倉市・扇ヶ谷)
扇ヶ谷管領屋敷跡
小田原城・天守・・・JR小田原駅付近より
小田原城・天守
旧東海道・箱根登山鉄道・東海道並走地点・・風祭付近
旧街道・登山鉄道・東海道の三線

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令和二年庚子・戊寅・丁未
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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