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戦国北条氏・五代

2020.01.10(07:00) 274

**戦国大名・北条一族

**日本初の検地

   宗瑞は大森氏より獲得した小田原城を拠点に西郡支配を行ったことは間違いない。  おそらく、小田原城は本城韮山城に対する支城とされ、そして西郡の領域支配や軍事力を担う在城衆が編成されたとみられる。  これにより宗瑞の家臣団は、本城韮山城を拠点とする韮山衆というべきものと、支城小田原城を拠点とする小田原衆というべきものと、宗瑞の側近家臣から構成される御馬廻衆などに編成されたとみられる。

   当時の小田原衆などの構成についての詳細は判らないが、家臣中最も高い家格を有し、西郡の中では卓越して高い知行高にある苅野荘を一円的な所領としていた松田氏が、在城衆の筆頭として存在していた事は間違いないだろう。 さらに、「役帳」 段階においても小田原衆として編成されている家臣のうち、西郡に本領を有する板部岡氏・南条氏等の譜代家臣、国人系松田氏・篠窪氏などの西郡出身の家臣らをはじめとして、伊豆・西郡に本領を有する家臣らも、すでに宗瑞の段階から小田原衆に編成されていた可能性が高い。

   さらに「役帳」の段階では、他の衆に編成されているもので西部に本領を有する、遠山氏・島津氏・小幡氏(以上江戸衆)・太田市(松山衆)など譜代の有力者も、やはり宗瑞の時期に小田原衆に編成されていた可能性が高い。  このうち遠山氏は、西郡の北部に本領松田郷惣領分を中心に所領を有する事から考えると、かなりその可能性は高いとみられる。 おそらく当時の小田原衆は、松田氏、遠山氏といった宿老が城将の地位にあって、在城衆を軍事的に指揮していたと考えられている。

   この後、宗瑞は相模の中部・東部などを相次いで攻略していくが、そうした宗瑞の領国の拡大とともに、小田原衆構成者もその都度変化していくことになる。 とくに中部については、在城衆の編成をともなう支城が取り立てられなかった事から、中部出身の家臣、中部に本領を与えられた家臣などは、当初、小田原衆として編成されたとみられる。  次代氏綱によって小田原城が北条氏の本城とされると、さらにその構成は大きな変化を遂げる事になる。

   宗瑞の領国支配において特筆されるのは、永正三年(1506)における検地であろう。 これは北条氏の検地として、最初に確認される事例である。 この検地に関する史料は、わずか二点が見られるに過ぎないので貴重である。
  一点は、「役帳」における記載であり、小田原衆南条右京亮綱長の本領西郡宮地(湯ヶ原町)81貫900文について、「此内廿三貫三百文有物、丙寅検地辻」 という注記がみられている。  「役帳」 が作成された永禄二年(1559)以前の「丙寅」 年は永正三年にあたり、「有物」は増分の意味である。  この注記は、宮地における南条氏の知行高81貫文余りのうち、23貫300文は増分で、検地によって打ち出された「辻」(合計)である事を示している。

  すなわち、同地における南条氏の元来の知行高は58貫600文であったが、永正三年検地により、増分23貫300文を加えられて、81貫900文になった事が判る。  この事から、元来の知行高が確定されたときに一度目の検地があり、今回の検地は少なくとも二度目以上の検地であった事が推定される。  因みに一度目の検地は、おそらく同地が宗瑞の支配に帰し、南条氏に所領として与えられた際に行われたのではと考えられる。
戦国北条氏・初代・次代系図
戦国北条氏初代期
早雲(宗瑞)禅寺三門   箱根湯本   
早雲禅寺
伊勢宗瑞(北条早雲)墓所   箱根湯本・早雲寺
早雲・墓石

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令和二年・庚子‣戊寅・壬子
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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