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戦国北条氏・五代

2020.01.15(13:00) 275

**戦国大名・北条一族

**(続)戦国大名による検地(日本初)

   北条氏による検地の史料もう一点は、永正三年正月の遠山直景寄進状の中に見える。  宿老の遠山直景が、本領の西郡松田郷惣領に所在した延命寺に、同郷内の土地を寺領として寄進したもので、田畠の面積とそれに対する貫高が明記されており、それは田一反につき500文、畠一反につき176文となっている。  この数値は、その後に於いて北条氏が検地の際に採用している貫高数値(田一反五百文・畠一反百六十七文)にほぼ一致する事から、この寺領寄進は、検地の施行の結果をもとに行われたと考える事が出来る。

   このように、永正三年の検地の施行が確認されるのは、宮地・松田郷と何れも西郡の地であり、同郡の検地はおよそ西郡一帯にわたって施行されたと考えられる。  検地は、郷村の田畠面積を調査して、田畠ごとに基準貫高を乗じてこれを貫高で表示し、郷村の高を決定するものであった。 
  この高から、様様な控除分などが差し引かれ、郷村の年貢高や公事高が決定され、あるいは家臣の知行高が決定される事から、検地は、郷村の年貢高・公事高、家臣の知行高を決定する為の基準となる政策であった。

  この永正三年に西部において行われた検地は、先に述べたように北条氏の検地施行の事例としては初見のものであるが、実際に最初の検地であったわけではない。  しかし、この時の検地は、宗瑞にとっては新領土である西郡に対し、獲得してから数年後に全域に渡って一斉に行われたものとされる。  その意味で、新領地に対して一斉的に施行された領域検地としての性格を持っている。  別の言い方をすれば、宗瑞は新領地における郷村の貫高を統一的に決定して年貢高や税額を決定する必要があり、検地はそのために行われた。
  宗瑞は、これによって西郡の諸郷村を完全に把握し、名実ともに領国下に納めるに至ったのである。 この時の検地は、北条氏にとって、一定地域を対象にした領域的な一斉検地として、最初のものと見ていい。  これは戦国大名全体を見渡しても、最も早い事例となる。 少し大げさにいえば、現時点においては日本で最初に戦国大名による統一的な検地が行われたのが、この西郡であった事になる。
早雲禅寺山門    箱根湯本  門の外・旧東海道  
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早雲禅寺・本堂(三つ鱗紋)    箱根湯本
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早雲禅寺付近を流れる早川・・・・・台風後の速い流れ     箱根湯本
台風後の早川

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令和二年庚子・戊寅・丁己
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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