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戦国北条氏・五代

2020.01.20(08:00) 276

**戦国大名・北条一族

**宗瑞・相武へ侵攻

   永正五年(1508)までの軍事行動は、ほぼ今川氏の軍事行動の一環であったとみられるが、そうした性格が一変されるのが、翌六年からの相模国守護・扇ヶ谷上杉健芳と関東管領・山之内上杉顕定への敵対を契機としていた。 これがこの後、宗瑞が相模経略を推進していく契機となった。 

   独自の軍事行動を展開し、両上杉氏領国への侵攻に専念していき、もはや今川氏の軍事行動への参加は見られなくなる。 この両上杉氏への敵対も、当時の関東の内乱状態と密接に関連した行動であったと思われる。

   関東では、長享元年(1487)以来、長享の乱が展開されていたが、永正二年(1505)、扇ヶ谷上杉氏の事実上の敗北で終息した。  しかし、翌年三月、今度は古河公方足利氏の内訌(政氏と高基の抗争)を中核とする永正の乱。  翌年、越後守護代長尾為景の下克上によって守護上杉房能は敗死し、越後においても内乱が展開された。 しかも敗死した上杉房能は、関東管領山之内上杉可諄の実弟であった為、可諄がそれに介入し、関東の内乱は越後の内乱とも連動して展開されていった。 そして永正六年、上杉可諄は長尾為景追討のため越後に出陣するが、対する長尾為景は関東の与同勢力に蜂起を促し、これに呼応したのが宗瑞と長尾景春であった。

   宗瑞がなぜ両上杉氏に敵対するに至ったかは定かではないが、室町幕府は長尾為景とそれに擁立された守護上杉定実による越後支配を公認し、出羽の伊達尚宗に定実の救援を命じているように、可諄の越後出陣を認めていなかった。  宗瑞は、幕府関係者と密接な関係を有していたから、こうした幕府の意向もその背景にあったとみられ、幕府の態度を見極めたうえで、両上杉氏への敵対を遂げたと思われる。

   伊豆に乱入してからすでに十六年が経過し、宗瑞は伊豆・相模西部を分国とする伊豆国主として、関東政界のなかに確実な位置付けられていたものと見られる。  分国をめぐる甲斐武田氏・山之内上杉氏との対立も、そうした関東における政治的対抗関係に規制されていたのであり、、関東の内乱状態の激化を受けて、宗瑞は分国周辺の政治的対抗関係の解決の延長として、自らの領国拡大というかたちに打ってでたとみられる。  そして、以後における相模経略の推進は、同時に今川氏からの実質的な政治的自立をもたらし、まさに関東における政治勢力の一員として、自己を確立していった。

   永正六年(1509)、上杉建芳に敵対した宗瑞は同寺にその領国に侵攻し、中郡において高麗寺要害(大磯町)と住吉要害(平塚市)を攻略して武蔵に進出、建芳の宿老上田蔵人を味方に引き入れ、その本拠、武蔵神奈川の権現山城(横浜)に蜂起させ、さらに建芳の本拠武蔵江戸城近辺まで侵攻している。
関東管領・山之内上杉氏邸跡     (鎌倉・山之内明月谷)
明月谷・山之内
亀ヶ谷坂切通し    山ノ内と扇ヶ谷を結ぶ・・・・・・
山之内~扇ヶ谷切通し

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令和二年・庚子・戊寅・壬戌
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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