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戦国北条氏・五代

2020.01.25(07:00) 277

**戦国大名・北条一族

**相模一国・経略

 永正九年(1511)になると、山之内上杉氏において可諄の家督をめぐる内訌が勃発し、これが古河公方足利氏の内訌とも結びつき永正の乱は大きく展開した。 そして再び、山之内上杉氏(憲房)と扇ヶ谷上杉氏(建芳)との抗争が始まった。  宗瑞はこの内訌の隙をついて建芳との和睦を破棄し、再び建芳の領国への侵攻を展開した。
  最初の標的は、建芳方の中郡における最大の軍事拠点である、三浦道寸の領有する岡崎城(伊勢原・平塚市)であった。  前々年の道寸による中郡住吉要害攻略から、建芳方の軍事拠点として道寸の所領内に置かれた城と見られる。  それは宗瑞に対する押さえの意味があって、同城が道寸の持城である事から、建芳の中で道寸が宗瑞への押さえの役割を担うようになっていた。  岡崎城には道寸の嫡子義意が在城していたとみられるが、宗瑞は八月の初めには攻撃を開始している。 その結果、敗れた義意以下は、三浦郡西端にある住吉要害(逗子市)に後退した。 宗瑞はこれを追って鎌倉に進出している。

   これにより宗瑞は、中郡・東郡の経略に成功した。  さらに、その年の暮れには武蔵国久良岐群本目(横浜市・本牧)の領主平子牛房長に、軍勢の狼藉禁止などを保証しているから、久良岐群迄その勢力を広げていたと思われる。
  翌年には鎌倉近辺で三浦道寸と激しく戦い、その兵火によって藤沢の遊行寺が焼失している。 合戦は宗瑞が勝利したようで、道寸を住吉要害から追い、本拠の三浦郡三崎城に後退させたらしく、宗瑞は間もなく三崎城を攻撃している。  住吉要害は道寸の弟道香が守備をしていたが、宗瑞は同要害の攻略に成功し、城主道香は自害したという。

   こうした状況に対して上杉建芳による反撃を行い宗瑞に圧力を掛けようとしたが、余り効果は無かったようだ。  しかし、三浦氏の頑強な抵抗と扇ヶ谷上杉氏の反抗によって、三崎城の攻略は簡単ではなかったようだ。  さらに、三浦氏支援のために建芳の養子上杉朝興が大軍を率いて中郡に侵攻したが、宗瑞はこれを迎撃し、江戸城に撃退させた。  宗瑞は余勢をかって、そのまま三崎城攻撃に転じ、ついには三浦氏を滅亡させた。  ここに宗瑞は三浦郡を奪い、相模一国の経略を果たした。
北鎌倉・明月院付近・・・・当時関東管領・山之内上杉氏の邸宅跡
明月院前

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令和二年・庚子・戊寅・丁卯
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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