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戦国北条氏・五代

2020.02.05(07:00) 279

**戦国大名・北条一族

**伊勢宗瑞死す

   氏綱の家督継承によって伊勢氏の本拠は小田原城に移されるが、宗瑞はそのまま韮山城に在存したとみられるが、一年後の永正十六年八月同城で死去し、波瀾に満ちた生涯を終えた。  享年は64歳であったと推測される。  ・・・法名・早雲寺殿天岳宗瑞大禅定門・・・とおくられた。

   遺骸は伊豆修善寺で葬送して荼毘に付され、遺言により箱根湯本に菩提寺として早雲寺が創建されて埋葬されたという。  死去の一か月後には、氏綱を施主として無遮会が営まれた。  導師を務めた芳林乾幢が詠んだ祭文のなかで、宗瑞は「豆・相州」の「賢太夫」「天下の英物」と評されている。 一代で伊豆・相模にヵ国の戦国大名にのし上がった英物の死去であったと言えよう。

   宗瑞が制定されたとする 「早雲寺殿廿一箇条」 は戦国大名の家訓の典型として広く知られている。 そかし、制定者や時期についての確証はなく、本家訓を宗瑞が制定したというのは、あくまでも所伝の域を出ない。 本家訓の内容は、武家奉公における様々な心得について、具体的かつ多岐にわたって説いたものである。
  しかし、その内容の多くは、中世から近世にかけて一般的に行われていた武家奉公の在り方を説く社会思想が反映されたものであった、その意味で家訓の制定者は北条氏関係者とは限らない・・・・・。

**宗瑞の妻・子女について

   宗瑞の妻については、三人ほどの存在が確認されている。  正室は京都小笠原備前守の娘と伝わる。 備前守は室町幕府奉公衆小笠原政清の事で、その次男六郎元続が、後に氏綱を頼って下向している。 また、宗瑞の「後御前」と注記される南陽院殿華渓宗智大禅定尼が死去しているが、彼女がこの小笠原氏の可能性が高く、嫡子氏綱は彼女の所生である。  

   四男宗哲の母は法名を善修寺殿梅嶺と言った人である。 宗哲の菩提寺である修善寺町金龍院の位牌に、彼女について「幻庵(宗哲)母と記されている。 おそらく宗瑞の側室であろう。
  なお宗哲の母は、これまでの研究では、天文二十三年(1554)死去した栖徳寺殿と考えられていた。  しかし、彼女について「放生家過去帳」には、「北条新三郎殿老母」と、宗哲の子新三郎氏信の母と記されている。 一方、「伝心庵過去帳」には宗哲の母と記されていること、善修寺殿よりも早い死去であるという両者の死去年の前後性などから、宗哲の母が栖徳寺殿で、善修寺殿は宗哲の妻であり、各過去帳の記事は誤記であると考えられたのである。
  「金龍院位牌」は善修寺殿を筆頭に宗哲と姉妹が合わせて記載されており、これは善修寺殿とその子たちを記載していると考えられるので、それらの所伝通り、善修寺殿が宗哲の母で、栖徳寺殿はその妻であったと考えるのが正しいのであろう。 善修寺殿所生の子は三浦氏員室(長松院殿)、宗哲、青松院殿の一男二女である。
伊勢宗瑞盛時(北条早雲)墓所 ・・・・・・ 箱根湯本・早雲寺
早雲・墓石
宗瑞・四男宗哲(幻庵)系図       次男氏時は鎌倉玉縄城主
初代期兄弟
宗瑞・・・嫡男氏綱、次男氏時、三男氏広・・・・四男宗哲(幻庵)
戦国北条氏初代期

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令和二年・庚子・己卯・戊寅

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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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