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戦国北条氏・五代

2020.02.10(09:00) 280

**戦国大名・北条一族

**宗瑞の妻・子女つづき

   続いて、駿河・駿東郡の有力国衆の葛山氏の娘も妻の一人と伝わる。 彼女についての詳細は判らないが、宗瑞の子の一人に氏広があり、彼はのちに葛山氏を継承しているから、葛山氏の娘が宗瑞に嫁いだ事は事実とみていいだろう。 その彼が母の実家を継承することになったと考えられる。

   宗瑞の子女は、四男二女の存在が確認される。  男子は、氏綱・氏時・氏広・宗哲、女子は三浦氏員室(長松院殿)・青松院殿である。  長幼の順ははっきりしておらず、確かと見られるのは、長男が氏綱、四男が宗哲で、宗哲の姉に長松院殿、妹が青松院殿という事までである。  氏時と氏広の長幼の関係は不明である。

   長男の氏綱は、長享元年(1487)の生まれ、母は小笠原氏。 仮名は宗瑞と同じ新九郎を称し、北条氏二代当主となる。 氏時は相模東郡の拠点玉縄城(鎌倉市)の城主を務めた。  氏広は駿河国駿東郡の国衆葛山氏を養子継承した。 四男宗哲は、明応二年(1493)生まれと云われているが、はっきりしない。 幼少から僧界に身を置き箱根権現別当職を継承する。

   惣領氏綱については、本題として後述するとして、先ずは氏時からレポートする事にする。  仮名は新六郎を称し、兄氏綱の下で相模東部の玉縄城(鎌倉・大船)の城主を務めた。  享禄二年(1529)からその活躍が確認され、先ずは伊豆三島社護摩堂に、陣僧・飛脚役の免除や茶園等の領有について安堵している。 氏時がこれをどのような立場で発給したかははっきりしないが、こうした内容は、少なくも三島社支配を担当する立場にあったとみられ、具体的には伊豆郡代ないし韮山城主が考えられるが、そうとすれば、氏時は兄氏綱が小田原城を本拠とした後、宗瑞の本拠であった韮山城を継承し伊豆支配を担当した事が推定される。 こうした立場を考えると、氏時は宗瑞の次男で、氏綱とは同腹の兄弟であった可能性がある。 
  次いで玉縄城下の二伝寺(藤沢市)に対し、諸公事等の免除や竹木伐採禁止を保証している。 さらに鎌倉圓光寺の毘沙門天立像に、檀那として「北条新六郎氏時」の名が見える。  これらは、玉縄城主としての動向とみる事が出来る。 氏時が城主となった時期は不明だが、先の三島社への文書の発給時期などから、享禄二年の八月頃と推定される。  この頃、氏綱は扇ヶ谷上杉氏と抗争を展開していたが、多摩川から鎌倉が主たる戦場となっていたから、氏綱にとってはやや劣勢の展開にあった。  こうした状況を考えると、氏綱は、相模と武蔵の国境地域における重要な軍事拠点である玉縄城に弟氏時配置して、武蔵南部の防衛体制を強化したのであろう。  

   北条氏が玉縄城を築城したのは、鎌倉進出直後の永正九年(1512)頃、同城は、長享の乱の際に、山之内上杉氏が東郡における軍事拠点として構築した玉縄要害を再築城したものである。 そのころ、扇ヶ谷上杉氏の東部における拠点として、大庭要害(藤沢市)が存在しており、玉縄要害はこれに対抗して構築されたものであろうか。  同要害は明応三年(1493)に扇ヶ谷上杉氏方の攻撃によって落城している。 なお、大庭要害がどの時期まで存在したのかは明らかではないが、永正九年の宗瑞の鎌倉進出に際しては、軍事拠点としての同城の存在は見られないので、既に破壊されていたものと思われる。 玉縄要害の再築城は三浦氏の住吉要害に対抗してのものであるが、東郡周辺における軍事拠点としても機能した。   
  玉縄城主・北条氏時は享禄四年(1531)8月に死去している。  次代城主の為正の登場でその時期が推定される、氏時に実子が無かったようで、、城主の地位は、兄氏綱の三男為正に継承された。

    次に葛山氏広は駿河葛山氏の養子となり、その家督を継承した。  この事から、その母は葛山氏の娘であったと推測される。いわば母方の実家を継承したことになる。 宗瑞の子が葛山氏を継承した事は江戸時代から知られていたが、それが誰かはは判っていなかった。  各北条氏系図に宗瑞の子は氏綱、氏時、宗哲の三人しか記載されていなかったからで、氏時とする説や宗哲と説が長らく提示されてきた。 最近になって、それまで葛山氏ととして知られていた氏広が、北条氏出身であるという所伝が確認され、氏時や宗哲の動向から彼らによる葛山氏継承は想定できないとされ、葛山氏を継承した宗瑞の子とはこの氏広に推定できる。

   終りに、長松院殿・青松院殿は、先に触れたが、「幻庵姉」‣「幻庵妹」と記載されているから宗哲の同母の姉妹であった事が判っている。 姉の長松院殿は今川氏の宿老・三浦氏員に嫁いでいたが、今川氏の滅亡で離散したが、弟宗哲によって引き取られ余生を宗哲の許でで送っている。  また妹青松院殿については現在の所殆ど判っていない。
宗瑞の妻・子女系図  (伊勢新九郎盛時)
戦国北条氏初代期
玉縄城主・北条氏時より諸公事の免除等を受けた二伝寺  (藤沢市)
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玉縄城・鳥瞰図 (鎌倉市・玉縄)玉縄城鳥観図

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令和二年・庚子・己卯・癸未
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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