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戦国北条氏・五代

2020.02.15(08:00) 281

**戦国大名・北条一族

**氏綱の登場

    宗瑞の嫡子氏綱は、長享元年(1487)の生まれで、母は正室小笠原政清の娘である。  元服の時期は不明であるが、凡そ文亀年間(1501~4)と推定されている。 当時、父宗瑞はいまだ今川氏の姻戚として、その政治力を構成する立場にあったから、実名のうち「氏」は、今川氏の当主で従兄弟の氏親から偏諱として与えられたとみられる。  仮名は、父宗瑞と同じく新九郎を称した。

   氏綱が、史料上に初めて現れるのは、永正九年(1512)8月で、家臣伊東氏に対し岡崎台(伊勢原市・平塚市)合戦の戦功を賞した感状であり、そこに宗瑞と共に連署している。  さらに、武蔵久良岐郡本目(横浜市本牧)の領主平子氏に与えたその本領についての制札でも宗瑞と連署している。
  この年は宗瑞の相模経略が本格的に展開された年であり、氏綱が両文書に宗瑞と連署している事は、相模経略において、氏綱が宗瑞の嫡子として宗瑞と並ぶ中心的な役割を果たしたことを示している。  氏綱は相模経略の展開に伴って歴史上に登場してきたのであった。  当時二十六歳である。

   次に、鎌倉三ヵ寺(建長寺・円覚寺・東慶寺)に対し諸公事を免除している(永正12年)。ここには氏綱の署判があり、宗瑞の花押が袖に据えられている。  これは氏綱が発給した文書内容に、宗瑞が保証を与えた事を意味している。  同文書の本来の発給者は氏綱であった事が判る。 それまで氏綱の署判は何れも宗瑞との連署でしか見られなかったが、ここで単独で文書発給が行われたいる。
  しかし、宗瑞が氏綱の発給文書の内容を保証している事は、氏綱単独の発給文書ではその効力が薄いと認識されていたと思われる。 これは、氏綱が宗瑞の嫡子として代理的に発給したものであった為と考えられる。  後に氏綱の家督継承によって本拠が小田原城に移される事を考えると、家督継承以前より同城に在城し、相模支配の一部を担っていた可能性は高い。

   ちなみに、小田原城下に伝心院という寺院があり、これは死去した宗瑞の妻南陽院殿を開基としている。  建立の経緯などは全く不明で推測の域を出ないのPだが、南陽院殿は氏綱の母と考えられており、その死去は、宗瑞の菩提寺として早雲寺が建立される以前の事であるから、早雲寺の建立以前に、すなわち家督相続以前に氏綱によって建立されたのでなかろうか。  そう考えると、宗瑞妻の菩提寺が早雲寺とは別に小田原に所在している事にも納得がいく。  その事が氏綱の家督相続以前の小田原在城の傍証となる。

**虎の印判

   氏綱は、永正十五年に宗瑞から家督を譲られたと考えられているが、その家督継承と共に登場してきたのが、「虎の印判」である。 この「虎の印判」は、上部にうずくまった虎を据え、「禄寿応穏」の印文を刻んだ朱印である。  初見は同年九月に発給された伊豆の代官山角某宛ての文書である。  ここでは年紀の上部に印判の右端がかかる程度に押捺されている。
 以後のほとんどは、印判の中央が年紀にかかって押捺されるが、新たに支配下に入った地域に対して初期に出されたものには、このように印影がよく見えるように押捺されているものが見られる。 同文書も印影がよくわかるように配慮されて押捺されているから、同文書は、同所に対して初めて出された「虎の印判」であったとみられる。
 このように印判が押捺されて出された文書を印判状という。

   郷村から直接に公事を徴発するのは郡代・代官の家来であり、おそらくそれらの中には、伊勢氏が命令した以上の徴発を行ったり、伊勢氏が命令していないにもかかわらず、その命令によると言って徴発する場合があったのであろう。  こうした状況に対し、負担する郷村側から強い不満が出されていた事は間違いない。
 伊勢氏はこうした事態を重く受け止め、役人による不当な公事賦課の排除を図り、その命令を直接、郷村に示す事としたと考えれる。

伊勢宗瑞(盛時)の妻小笠原氏娘(南陽院殿)の系図
戦国北条氏初代期
緒公事免除の対象となった円覚寺・東慶寺
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東慶寺第五代庵主・用堂尼墓所    鎌倉・山之内
五代用堂尼墓

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令和二年・庚子・己卯・戊子
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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