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戦国北条氏・五代

2020.02.20(08:00) 282

**戦国大名・北条一族

**(続)・虎の朱印状

   不当な公事賦課を行う者について、伊勢氏への直訴を認めているのは、この対策を実効性のあるものとする為の措置である。  それまでは、そうした家来たちの不正を訴える先は、彼らの主人であった。 しかし、主人たちは、自らの家来の処罰を十分に行わない事が多かったとみられる。
  伊勢氏は、それらの不正についての訴訟を直接に受付、対処したのである。 当然、それらは彼らの主人の頭越しに行われるから、これは結果として、彼らの家来に対する主人権を大きく制約することになる。
 これらの事に関わって重要なのが、伊勢氏が郷村に直接、文書を発給するという事である。 これまで戦国大名が在地の郷村・百姓に対して、直接に文書を発給する事は無く、その場合には家臣らが文書を発給していた。
    伊勢氏においても、公事賦課の命令が直接的には郡代や代官の文書によって行われていたのは、その為である。 それは文書発給における書札礼という文書の出し方についての作法に依拠していた。
  それまで大名の発給文書は、すべて大名の花押が据えられていたものしかなく、その場合、大名が目下の者に文書を出すのは、自らの家臣らに限定されていたからである。そうした書札礼における障壁を乗り越えるために、大名の人格を示す花押を用いず、その意思を示す印判を用いる事で、新たに郷村・百姓を受給対象とした文書様式が生み出されたのである。

    また、氏綱は「虎の印判」とほぼ同時に、「調の印判」という別の印判も使用し始めている。 これは「調」の一字を刻んだ2・5㌢の方形の朱印であり、主に職人‣商人からの公事徴発にあたって用いられたようだ。
  いわば「虎の印判」の職人・商人版と言えよう。

   氏綱は家督継承と同時に、こうした領国支配のための文書様式を整備したが、それは新しい領国支配体制が整えられたことを示すものであった。  そして「虎の印判」「調の印判」ともに、以後の歴代を通じてその滅亡まで使用される事になる。  特に「虎の印判」は、次第にその機能を拡大させて、禁制や家臣・寺社宛ての宛行状・安堵状・寄進状等にも用いられるようになり、まさに伊勢氏=北条氏の権力を象徴するものとなっていった。

   一方の「調の印判」は、次第にその機能を虎の印判状等に吸収されて、後には虎の印判状の紙継ぎ目印や、当主の花押代用印として使われるようになり、その性格が変化していく。
小田原城・銅門(あかがね)
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「虎の印判」・「調の印判」 氏綱期
虎・調の印判

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令和二年・庚子・己卯・癸巳
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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