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戦国北条氏・五代

2020.02.25(07:00) 283

**戦国大名・北条一族

**鶴岡八幡宮の造営  

   氏綱の生涯の中で、領国拡大を別とすれば、その一大事業として挙げられるのは、鶴岡八幡宮の造営事業であろう。  造営は天文元年(1532)から始められ、同社別当職を管掌していた小弓公方足利義明の了承を得て進められた。
  造営にあたっては、両上杉氏をはじめ武蔵・上野や房総三ヵ国の諸領主にも、造営のための奉加が求められたが、当然の事ながら両上杉氏はこれを拒否している。 翌年四月から実際に造営工事が着手され、その費用の多くは、北条氏の領国内の領主や郷村から役として徴収された。 いわゆる臨時の税金によって賄われた。 また、造営には領国内の職人等が大量に動員されたほか、京都・奈良からも職人が招かれている。

   工事は上宮仮殿の造営から始められ、次いで上宮回廊やその他の諸宮の造営が進められた。 天文五年に仮殿への遷宮が行われて、いよいよ上宮正殿の造営が開始され、同九年に正殿遷宮、すなわち落慶式が行われた。  そして当日には下宮で、翌日には上宮で、氏綱をはじめ北条氏の一門・部将、京都下りの人々の隣席の許に、種々の神事が盛大に挙行された。 なお造営事業そのものはその後も続けられ、最終的に終了するのは、子の氏康の時代の事である。

   鶴岡八幡宮は言うまでもなく頼朝以来の東国の守護神であり、聖都鎌倉のシンボルであった。 八幡宮の造営は、同宮の外護者となる事を意味し、単に相模国守としての事業に止まるものではなかった。  氏綱が小弓公方足利義明から了承を得たり、領国外の諸領主に奉加を求めたのはその為である。

   また、本来これ等の造営を行うべき関東公方足利氏、関東管領山之内上杉氏、さらに相模国守護扇ヶ谷上杉氏等は、すでに何れもその力を持ち得なかった、両上杉氏と対決を続け、両氏にとって代わる事を意図していた氏綱は、この造営を主宰し、ほぼ独力で遂行する事によって、自らの行動とその立場の正統性の確立を図った。

   造営事業の最中に、氏綱は関東管領職に就任して、名実ともに両上杉氏との対決にあたっての正統性を獲得していたが。、造営の成就は、それを精神的世界からも補強したと思われる。
  氏綱は、上宮正遷宮から約半年後の天文十年夏ごろから体調を崩して、出家していたが七月十七日に死去した。 五十五歳の生涯であった。 箱根湯本・早雲寺に葬られ、鶴岡八幡宮の造営という一大事業を成し遂げた上での往生であった。
鶴岡八幡宮参道・「段葛」   鎌倉・雪ノ下
段葛
氏綱造営の基礎となる現在の本殿
八幡宮本殿
八幡宮・若宮
八幡宮・若宮

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令和二年・庚子・己卯・戊戌
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