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戦国北条氏・五代

2020.03.05(08:00) 285

**戦国大名・北条一族

**氏綱苦戦を強いられる

   扇ヶ谷上杉朝興は山之内上杉憲房・武田信虎と共同して軍事行動を展開し、活発な外交活動を展開し、小弓公方足利氏の擁立主体である真理谷武田氏をを氏綱と断行させて、小弓公方勢を味方につける事に成功している。
  これらの朝興の行動により、氏綱は周辺の政治勢力によって包囲網を形成された格好となり、さらに朝興が、江戸城奪回の為江戸地域に向けて軍事行動を展開し、白子原(和光市)辺りで合戦となり、蕨城まで攻略している。 この展開に小弓公方勢力の有力武将である真理谷武田氏と安房里見氏の軍勢が、海路江戸湾に侵攻して、朝興勢力を支援している。 その後、里見氏に相模玉縄城まで進撃され鎌倉を攻撃されている。
  このように、氏綱と朝興方との抗争は、朝興方の諸勢力が連携しての軍事行動によって、合戦は主として江戸城地域以南のに於いて展開され、氏綱は劣勢を余儀なくされた。

   こうした氏綱劣勢の状況を変化させたのは、房総における里見氏に内訌が生じた事からであろう。  これは当主義豊と、その従弟の庶家義堯との抗争で、氏綱はこの内訌に介入し、鎌倉から海路援軍を派遣している。
  これに対して義豊を支援する上杉朝興は、武田信虎に相模への支援を要請したとみられ、武田勢は津久井に侵攻し、朝興自身も相模中部まで侵攻した、 しかし義豊はそのころ既に没落しており、天文三年四月には滅亡している。 これにより、里見氏は氏綱が支援する義堯が継承し、朝興方勢力から離脱した。 

   さらに、今度は真理谷武田氏に内訌が生じた。 当主信隆と叔父の信秋の抗争とみられ、ここでは氏綱は信隆を支援した。 これら小弓公方足利氏方の有力武将間の相次ぐ承継争いの展開は、義明方勢力、さらに朝興方勢力を大きく減退させた。 

   一方で、氏綱は駿河今川氏輝(氏親の子)から援軍の要請を受け、甲斐に進軍し、武田勢と交戦したが、逆に信虎の要請を受けたとみられる朝興が、その留守を突くかのように相模・中郡に侵攻してきている。  甲斐からの帰還後、氏綱は直ちにその報復のため、河越に向けて出陣し、武蔵入間川の合戦に勝利した。 ここにきて氏綱は、朝興の本拠周辺までの進軍が可能となっていた。 朝興方勢力の減退が、両者間の軍事的均衡関係を崩したのである。

**苦戦脱却へ

   天文六年上杉朝興が死去し、家督は嫡子朝定に継承された。  氏綱は真理谷武田氏の内訌に大規模な介入を行ったが、小弓公方足利義昭の攻撃の為に敗北を喫し氏綱の房総における政治的影響力はおおきく減退していた。
  そうした状況の中、朝定が武蔵府中に進出して、深大寺要害(調布市)を取り立てている。 これに対して氏綱は、武蔵に向けて出陣し、深大寺要害を攻略し、さらに河越城に向けて進撃した。
  河越城近くの三木で扇ヶ谷上杉軍と合戦となり激戦の末、勝利している。 上杉軍はそのまま敗走し、朝定も河越城を維持する事は困難と判断、同城を放棄したと思われる。  ここに氏綱は、享徳の乱以来、扇ヶ谷上杉氏の本拠であった河越城の攻略に成功した。  それはまた、扇ヶ谷上杉氏の政治的勢力の衰退を決定的とした。

   翌年、朝定が山之内上杉憲政(憲房の子)と共に反撃したが、氏綱はこれを一蹴し、その余勢ををかって、扇ヶ谷上杉氏方の大石石見守が籠る下総葛西城(板橋区)の攻撃して、攻略に成功している。 この葛西城は江戸地域とは隅田川を挟んで対岸に位置し同城の攻略は、江戸地域の確保の為にも大きな意味を持ち下総における橋頭保の確保伴った。
JR大船駅からの大船観音・・・・・・玉縄城の砦跡
観音寺
房総里見氏による鎌倉攻撃の激戦地跡  玉縄城柏尾川付近
里見戦・供養碑

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令和二年・庚子・庚辰・丁未
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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