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戦国北条氏・五代

2020.03.20(11:00) 288

**戦国大名・北条一族

**北条氏康(第三代)・登場

   氏綱の嫡子氏康は、永正十二年(1515)の生まれ、母は養珠院殿と思われる。  幼名を伊豆千代丸と称し、「箱根権現宝殿造営棟札銘」に、父氏綱に次いでその名が見える。  当時、氏綱は伊勢名字を称していたため、氏康も同名字をを称していた
  氏綱は、この後伊勢名字から北条名字に改称するが、氏康は大永五年の時点で「伊勢伊豆千代丸」と見えており、まだ伊勢名字を称している。  北条名字への改称は、当初は当主氏綱のみであり、その子弟らは伊勢名字のままであったらしい。   詳しい経緯は判らないが、この後、氏綱は一族に対して順次、北条名を与えたらしい。 氏康は、おそらく元服などを機に北条名字を称する様になったのであろう・・・・・・。

   氏康の元服した時期もはっきりしないが、元服によって仮名新九郎、実名氏康を得て北条新九郎氏康と称した。 元服は氏綱の左京太夫任官と同時期であったと思われる。  氏綱は、氏康の元服にあたり、仮名新九郎を彼に譲る必要から、同官に任官したと考えられる。  元服は普通年末に行われる様なので、享禄二年(1529)末頃に行われた可能性は高い。 十五歳。
  初陣については、確認することは出来ないが、江戸時代に発刊された軍記もの「異本小田原記」などは、享禄三年の武蔵小沢原(東京・調布市、神奈川・川崎市)の合戦に出陣したと伝えられる。 元服の直後にあたるから、事実を伝えている可能性は充分に考えられる。  それによると、当時、武蔵河越城(川越市)を本拠としていた扇ヶ谷上杉朝興が、、重臣難波氏、上田氏らの軍勢を武蔵府中(府中市・調布市)に進軍させてきたため、氏綱は氏康を大将に迎撃に向かわせた。 まず上杉軍が在陣する多摩川端の小沢原に攻め懸かり、これを撃退したというものであった。 十六歳。

   この年、北条氏は扇ヶ谷上杉氏の反撃を受けて、多摩川流域の小沢城(稲城市)・世田谷城(世田谷区)を落とされ、武蔵中部支配の拠点・江戸城(千代田区)まで攻撃されている。
  こうした経緯からすると、扇ヶ谷上杉氏が再び府中に進軍して来る事は充分に考えられる。 氏康は、これを首尾よく撃退し初陣を飾る事が出来たことになる。  もっとも、これで扇ヶ谷上杉氏の反撃をくい止めたわけではなく、その後もしばらく戦いは続き、武蔵南部から相模にかけて合戦が続いた。


   続いて氏康は、駿河の戦国大名今川氏親の娘(瑞渓院殿)と婚姻している。 瑞渓院殿とは言うまでもなく出家後の法号であり、その名などは伝わっていない。  今川氏親は、祖父宗瑞の甥、父氏綱の従兄にあたるから、瑞渓院殿とは又従兄弟にあたる。 婚姻の時期も瑞渓院殿の年齢も不明である。  この時の今川家の当主は氏親の長男氏輝であり、彼は氏康より二歳年長であった。 瑞渓院殿はそれより年少と思われ、おそらく氏康よりも年少であったと推測される。

   天文五年、今川氏輝は弟彦五郎と共に小田原を訪問している。 氏康との婚姻を受けての事と考えられるから、婚姻は少なくとも天文四年以前の事と推測される。 瑞渓院殿との間に生まれた、次男で後に家督を継ぐ氏政は天文七年の生まれと伝えられ、その兄に早世した長男新九郎があったから、その婚姻は天文年間前半頃であった事は間違いない。

   この婚姻は宗瑞以来、一体的な関係にあった今川氏との関係を確認し、さらに強化しようとするものであった。 氏輝兄弟は、小田原訪問から帰着後まもなく死去してしまい、間もなく家督をめぐって内訌が起こり、弟の義元が継承した。  その義元が翌年外交政策を転換し、敵対関係にあった武田氏との同盟を推進した。  これによって氏綱は今川氏と敵対する事になる。
戦国北条氏五代・墓石   (箱根湯本・早雲寺)
後北条氏五代の墓
北条氏三代当主・氏康兄弟
氏康・為昌

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令和二年・庚子・庚辰・壬戌
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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