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戦国北条氏・五代

2020.03.25(16:30) 289

**戦国大名・北条一族

**厳しい状況下の家督継承

   氏康は、天文十年七月、父氏綱の死去により、北条氏の家督を継承した。 二十七歳。
 氏綱の晩年には、北条氏は古川公方足利氏から関東管領に補任され、さらに同氏との婚姻関係を成立させて、足利御一家という政治的地位を獲得していた。 いわば、関東武家勢力のなかで公方足利氏に次ぐ地位にあったのである。  

   一方、領国は伊豆・相模二ヵ国に加え、小机・江戸・河越・葛西の武蔵中部・下総南西部、及び駿河河東の駿河半国にわたっていた。 さらに武蔵西部の大石氏・三田氏を旗下に従え、下総の千葉氏勢力や上総真理谷武田氏に対する指導的立場を確立させていた。 こうして、北条氏は名実共に関東における最大の政治勢力を形成していた。

   しかし、その反面、氏康は周囲を敵対勢力に囲まれていた。 特に武蔵松山・岩村(さいたま市付近)を勢力圏とする扇ヶ谷上杉氏と、とその同盟者で上野・北武蔵を領国とする山之内上杉氏とは、氏綱の武蔵への領国拡大が彼らの領国の経略によっていたため、鋭く対立していた。 また、駿河河東地域をめぐって今川氏とその同盟国である甲斐武田氏と対立し、上総の領有をめぐっては安房・上総南部を領国とする里見氏と競合関係にあった。 氏綱の死去は、それら敵対勢力にとっては反抗の好機となったと思われる。

   まず、氏綱の死去から間もなく、扇ヶ谷上杉氏がかつての本拠河越城(川越市)奪回を図り、同城を攻撃すると同時に、江戸城地域に対しても攻撃を仕掛けている。  河越城は籠城戦の末に扇ヶ谷上杉氏を撃退している。 氏康は家督継承直後の敵方の反攻をまずは撃退に成功した。 次いで荒川端でも扇ヶ谷上杉氏と戦っている。  さらに玉縄城の北条綱成の軍勢を海路から安房に侵攻させている。 これは、この後起きた上総真理谷武田氏の内訌への介入に伴うものと思われる。

   天文十四年(1545)になると、忍城(行田市)の成田氏を服属させ、真里谷武田氏における反対勢力から上総峰上城(富津市)を奪取した。 ところが駿河今川義元が河東地域に、義元の要請を受けた甲斐武田晴信が河東地域に進軍してきた為、北条軍は、最前線の吉原城(富士市)を放棄し、伊豆国境に近い長窪錠(長泉町)まで後退した。
  この今川・武田両軍の侵攻に合わせて関東では、山之内憲政・扇ヶ谷上杉朝定の両上杉氏が、叔父宗哲と義弟綱成が在城していた河越城を包囲、さらに古河公方方足利晴氏にも氏康との断交と河越への出陣を要請した。 氏康は河東と河越の両局面での対応を余儀なくされる事となり、家督継承後で最初の危機を迎えた。

   十月になって、氏康は武田晴信の調停を受けて今川義元・山之内上杉憲政との和睦を受け入れるに至った。 十一月に長窪城から軍勢を退去させ、同城を義元に引き渡した。  この和睦により、氏康は河東地域一円を義元に割譲することになった。  これは駿河からの明確な撤退であった。 
  一方、河越では足利晴氏が両上杉氏の要請を受け入れ氏康と断交して河越に向けて出陣し、同城包囲に加わってきた。  氏康は河東地域から帰陣すると、晴氏に対して翻意を促したが受け入れられる事は無かった。
  氏康は河越城の後詰の為に出陣し、河越砂窪に陣する両上杉軍を攻撃し、三千余人を討ち取るという大勝利をおさめた??。いわゆる「河越合戦」と呼ばれるものである。

   この合戦で、山之内上杉憲政や足利晴氏はそれぞれ本拠に退却し、扇ヶ谷上杉朝定やその重臣達は合戦で戦死した。残った兵士たちも本拠松山城を放棄し、これによって扇ヶ谷上杉氏は滅亡した。
戦国北条氏第三代う氏康系図
氏康・為昌
円覚寺・仏日庵のハクモクレン
仏日庵
明治時代・中国の作家 魯迅から送られた株 (ハクモクレン)
仏日庵・ハクモクレン

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令和二年・庚子・庚辰・丁卯
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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