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鎌倉北条氏

2017.01.16(18:11) 29

**鎌倉北条氏の草創

*北条氏・分裂?

頼朝は、時政を舅殿として上席に置いたが、重く用いませんでした。  一方、頼朝と政子はオシドリ夫婦の親密さがあり、 義時は 「家子専一」(ienokoseniti) と評される腹心の筆頭でした。

北条氏が全面的に信用できない状況にある為、 頼朝は嫡子頼家の乳母夫(menoto)や後見と云った重要な役割を乳母比企尼(hikini)の一族と縁者に託すことになるのです。

日蓮宗・妙本寺祖師堂  鎌倉幕府御家人・比企能員邸跡(二天門より)
妙本寺・祖始堂

*北条氏勢力の伸長

分裂したかに見えた北条氏であったが、時政は鎌倉に戻っていた。しかし、この時期の時政の政治的な基盤は、鎌倉殿御外戚と云う立場だけでした。  その立場は、時政に与党拡大の好機を与えたらしい・・・・・・。
下野国の足利義兼(yosikane)・武蔵国の畠山重忠(sigetada)・下野国の宇都宮頼綱(yorituna)など、名だたる東国の大豪族たちが、この前後に、時政の娘と結婚していたのです。  これに対して義時は、頼朝に近侍する事に徹していたようだ。 「義時は穏便の者なり」 と頼朝に信頼されていたのです。
因みに義時は、この時期、伊豆江間郷(伊豆長岡町江間)を領して、江間小四郎と名乗っていた様だ、時政の先妻の子でしたので、後妻の牧の方を憚って、別家独立することとになっていたのかもしれない。  時政の子女たちも先妻系と後妻系との別があり、ゆるい対抗関係があった様だ。

*平氏滅亡

寿永二年(1183)、に入ると、事態は急速に動き出した。  野木宮(nogimiya)合戦、倶利伽羅峠(kurikaratouge)の合戦、平氏の都落ち、木曾義仲の入京と続き、元暦元年(1184)木曾義仲の敗死、一の谷合戦、そして文治元年(1185)には屋島・壇ノ浦と合戦が続き、平氏は西海に滅亡した。
この間、時政は戦場に立つ事は無かった。  しかし義時は源範頼(noriyori)(頼朝・弟)に従って西海に赴き、筑前国芦屋浦での敵前上陸で戦功をあげ、頼朝から感状を受けている。
頼朝・腰掛石  (湯河原町・城願寺境内)
伝・頼朝腰掛石

この後、義経・行家(yukiie)の叛逆事件が起きると、時政の出番だった。  外交折衝の才能を買われて初代の京都守護に任じられると、千騎の兵を率いて上洛した。
京都に着いた時政はたちまちその才能を発揮した。 直ちに義経・行家追討の院宣を後白河上皇に要求した。 さらに全国に守護・地頭を設置することを認めさせ、さらに地頭が反別五升の兵糧米を得ることまで、許可させたのです。

続いて朝廷にいた反幕的公暁の解任、代わって親幕的な公卿の登用、すでに頼朝が獲得していた関東御分国八か国に加えて豊後国を加える等、鮮やかな活躍でした。  もちろん頼朝の指示・協力があってのことだが、これだけ朝廷から引き出しておきながら、朝廷から憎まれなかったという、まさに時政らしい・・・・・。 京都での任を果たして下向しようとしたとき、公卿たちがそれを惜しんだという。
しかし、抜群の功を挙げて帰った時政に、何らの恩賞も与えられなかった。 幕府の要職にも登用されなかった。 因みに頼朝は、清和源氏の血統で主だった者には、関東御分国のうちの国の国司に任じ、これを御門葉(gomonyou)と称して、源姓呼称を許した。

**御門葉**

〇 源 範頼 (noriyori)  (三河守)
〇 大内惟義(koreyosi)  (相模守)
〇 山名義範(yosinori)  (伊豆守)
〇 伏見広剛(hirotuna)  (駿河守)
〇 足利義兼(yosikane)  (上総介)
〇 平賀義信(yosinobu)  (武蔵守)
〇 安田義定(yosisada)  (越後守)
〇 加賀美遠光(enkou)   (信濃守)

**准門葉**

〇 毛呂季光(tisimtu)   (豊後守)
〇 結城朝光〈tomomitu〉 (上野介)
〇 一条能保〈kazuyasu) (隠岐守)
〇 大江広元        (因幡介)
〇 下河辺行平      ( ?  )
幕閣の要人たちが相当の地位を頼朝から拝領していた時、一人時政だけは、それに漏れている、陰謀家で野心家である事を、警戒されていたのであろう。  次回に続く

丁酉・壬寅・癸卯
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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