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戦国北条氏・五代

2020.04.05(11:00) 291

**戦国大名・北条一族

**氏康・関東武家勢力の頂点を・・・・

   永禄元年(1558)、上野最北端の国衆である沼田城の沼田氏に内訌が生じた。  内実は山之内上杉氏派と、北条氏派の抗争であり、敗れた山之内上杉氏派は越後に退き、長尾景虎を頼った。  この結果、沼田氏の名称を義弟北条綱成の次男康元が継承している。 こうしてこの頃には、上野の国衆はすべて氏康に従属し、氏康はほぼ上野一国を勢力下に納めた。  

   関東武力勢力の支柱の一つであった山之内上杉氏の没落は、これまでの関東の政治秩序そのものを大きく動揺させた。 関東武家勢力の頂点に位置する古河公方足利晴氏は、氏康の妹芳春院殿を正室に迎えていたが、河越合戦から氏康との関係は良好ではなかった。 氏康は徐々に晴氏に圧力をかけ、公方宿老の梁田晴助と起請文を交換した。 
  晴氏の長男ですでに嫡子に位置付けられていた藤氏を廃嫡、芳春院殿所生の末子で、僅か10歳の梅千代王丸(義氏)に公方家督の地位を継承させた。 ここに、氏康の外甥が古河公方を継承した。  以後、氏康はこの公方を前面に立てながら、関東の武家勢力全体に対峙していく。 梅千代王丸は氏康支配下の下総葛西城(葛飾区)に入城して、同城を御座所とした。

   ところが、隠居したはずの晴氏と廃嫡された藤氏は、葛西城から元の本拠である下総古河城(古河市)に強引に入部し、氏康に反旗を翻すという事件が起きた。  晴氏には下野小山氏や下総相馬氏が支援に廻っている。 さらに上野桐生の佐野氏も晴氏を支援していた。 いまだ上野では、旧山之内上杉氏勢力との抗争が続いており、桐生佐野氏もその一人であった。  晴氏は謀反にあたり、そうした上野における旧山之内上杉勢力の支援も当てにしていたと考えられる。
  これに対して氏康は、公方御一家の一色氏、宿老梁田氏、野田氏等を味方につけ、野田氏や松山衆をもって古河城を攻撃し、攻略に成功。 氏康は、降伏した晴氏を捕えて相模秦野に幽閉した。

   晴氏の挙兵を鎮圧したあと、公方権力は梅千代王丸に一本化され、梅千代王丸は氏康の計らいで元服し。足利義氏を称して従四位下・右兵衛佐に叙位・任官され、鎌倉八幡宮への参詣を遂げた。   これは武家政権の始祖源頼朝を強く意識した行動とみられる。
 
   北条氏康は、天文二十年(1551)に元服、仮名新九郎を称したとみられ、それに伴って左京太夫に任官したと推測される。 この官途は鎌倉幕府執権北条氏歴代のものであった。  ここに頼朝に凝された公方義氏と、執権北条氏に擬された管領氏康による新しい政治秩序が形成された。

   このように、関東における勢力をほぼ順調に拡張してきた状況の一方、天文二十年からは駿河今川氏・甲斐武田氏との三国同盟交渉を開始している。  氏康の娘早川殿が今川義元の嫡子氏真に嫁ぎ、氏康の嫡子氏政が武田晴信の娘黄梅院殿を娶って、互いに婚姻関係によって結ばれた強固な攻守軍事同盟が成立された。  この同盟形成により、氏康は今川・武田両氏をバックとする事で、関東経略に専心できたのである。
鎌倉・風景 Ⅲ    瑞泉寺山門
瑞泉寺山門
瑞泉寺道・桜
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六国見山~富士を望む
六国見山~富士

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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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