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戦国北条氏・五代

2020.04.10(08:00) 292

**戦国大名・北条一族

**上杉謙信登場

    この三国同盟は来たるべき越後長尾景虎との対決に備えたものであった。  既に武田氏は長尾氏との全面的な抗争を展開しつつあった。 そして北条氏も、山之内上杉氏への支援というかたちで長尾景虎の関東進軍を受けており、逆に武田氏への援軍として信濃上田(上田市)に進軍するというように、すでに直接的な交戦を行っていた。  さらに上野経略を進める過程で、山之内上杉憲政を庇護する長尾景虎との対決は必至の状況となっていた。

   永禄二年(1559)6月に、景虎(上杉謙信)は将軍足利義輝から憲政の「進退」について一任され、関東侵攻にあたっての名分を調えている。  こうしてその関東侵攻は、時間の問題となりつつあった。

   永禄二年12月、氏康は家督を嫡子氏政に譲り隠居した。 氏康45歳、氏政22歳であった。  隠居とは言っても、氏康は決して政治の第一線から退いたわけではなく、小田原城の本城に居住し、実質的に北条氏権力を主導し続けるのである。
  氏康隠居の背景には、天候不順を原因とする飢饉と疫病の流行で、領国内に死者が続出するという深刻な領国危機があった。氏康はこの危機に十分に対処できなかったために、餓死者を続出させた責任をとり、「天道思想」に基づき、社会的危機に対する民衆の世直しへの期待に従って、先ずは自ら北条氏当主の地位から退位して、新当首の下で社会状況の再建を図ったのである。  そして翌年に、新当主氏政の名により領国全域にわたり徳政令が発布され、領民の債務の一部を破棄し、彼に対する救済が行われる。

   永禄三年(1560)5月から、北条氏は上総里見氏の本拠久留里城を包囲したが、これに対して里見氏は長尾景虎に越山(関東入り)を要請した。  景虎はこれに応えるかたちで八月末に山之内上杉光哲(憲政)を擁して出陣し、九月には上野に進攻している。ついに越山を遂げたのである。
  吾妻郡の明間城・岩下城、利根郡の沼田城が攻略され、岩下斎藤氏は景虎に服属し、沼田城主の沼田(北条)康元は退去し、沼田城は景虎に接収された。  さらに、白井長尾憲景・惣社(前橋市)長尾景総・箕輪(高崎市)足利長尾禅昌らの上野・下野国衆が景虎に服属した。

   この進軍に参加した関東の国衆は、先に記述した他に、武蔵では忍成田長康・崎西(加須市)小田伊賀守・羽生衆・藤田衆・深谷上杉憲盛・岩付太田資正・勝沼(青梅市)、上総では東金・酒井胤敏・里見義堯、常陸では真壁久幹等であった。  それまで北条氏に従属していた上野・武蔵の国衆のほとんどが、北条氏から離反して景虎に従属した。
    北条氏の勢力圏は、一気に河越城あたりまで後退した。 北条氏方に立って抵抗し続けたのは上野では館林・赤井文六、武蔵では松山・上田宗調、下野では那須資胤、下総では結城晴朝・千葉胤富・臼井(佐倉市)原胤定、上総では土気(千葉市)酒井胤晴、常陸では大拠貞国らであった。 

   景虎の南下に伴い、岩付太田資正によって松山城、里見義堯によって葛西城が攻略された。  そして景虎は相模に侵攻し小田原城を包囲した。 しかし攻略しきれず帰陣している。 景虎(謙信)の今回の越山の目的は、鎌倉鶴岡八幡宮に参詣し、その社前で山之内上杉氏の名跡を継承し、上杉憲政のうち「政」字の偏諱をえて、上杉政虎と改名した。 その後、政虎は将軍足利義輝から偏諱を得て実名を輝虎と改名し、さらに、元亀元年(1570)に出家して法名謙信を称する。

   上杉謙信の来攻は、氏康にとって初めて本拠への攻撃を許すという最大の試練となった。しかも謙信は山之内上杉氏の名跡を継承した。  同氏は関東管領職を家職としていたから、名跡の継承は同時に関東管領職の継承を意味していた。  これにより謙信は関東の「大名」層に対しては関東管領「山之内殿」としえ、山之内上杉氏家臣に対しては「御屋形様」として、俄かに君臨する事になった。
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