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戦国北条氏・五代

2020.04.15(08:00) 293

**戦国大名・北条一族

**二人の関東管領!!

   この後、北条氏は謙信を「長尾」と、謙信も北条氏を「伊勢」と、互いに旧名字で呼び続け、「上杉」「北条」とは呼び合っていない。 これは「上杉」「北条」がともに関東管領職と一体の名字として認識されていたため、相手の旧名字で呼ぶことにより正統性を否定し、自らが唯一の関東管領である事を主張するものであった。

   謙信の帰国後、北条氏は早速反撃を展開して勢力の回復を始めた。  まず勝沼三田綱定を滅ぼし、藤田衆の天神山城(埼玉長瀞町)を開城させた。 さらに、小金高城胤吉・忍成田長康・崎西小田伊賀守・深谷上杉憲盛・桐生佐野昌綱等を従属させた。
 同盟者武田信玄にも支援を要請。  信玄は西上野への侵攻を展開し、吾妻郡・甘楽郡らを勢力下に収め、その中で謙信の侵攻で没落していた小幡憲重を本拠国峰城(群馬・甘楽郡)に復帰させている。

   次に、武田氏は白井長尾憲景と惣社長尾景総を相次いで没落させ、ついに西上野一円の領国化を達成した。  北条氏は、里見氏の本拠佐貫城攻撃を図ったが、三船台合戦(富津市)で、敗北を喫している。  その頃、下野佐野昌綱が謙信から離反し、佐野城から出城して攻略を図った。 その為謙信は同城に着陣して昌綱を撃退するが、その維持を諦めて自ら佐野城から撤退した。 佐野昌綱は同城に復帰と共に北条氏に帰属した。

   これによって、謙信の関東における勢力は、上野沼田領、武蔵羽生領(羽生市)のみとなった。 同じ頃に、佐竹氏・宇都宮氏・小山氏・簗田氏らが再び味方となってきたが、その勢力の後退は明らかであった。 これ迄謙信は、ほぼ毎年のように関東に越山してきていたが、翌年には越山せずその動向は窺えなくなった。 ここに謙信の関東支配はおおきく頓挫する事となった。
  こうして北条氏は、武田氏との連携によって謙信方によって攻略された諸城の奪回、謙信方に従属した国衆の再従属を進めていった。 謙信との関東支配をめぐる攻防では、その優勢を決定的とした。

**氏康・相模守受領

   この頃、氏康は官途名左京太夫から受領名相模守に、同時に氏政は仮名新九郎から官途名左京太夫にそれぞれ改称している。  氏康の受領名は相模国守の政治的表現であると共に、何よりも鎌倉幕府執権北条氏のそれを踏襲するものであった。  同受領によって、北条氏が自らを鎌倉幕府執権北条氏に擬する過程は、最終的な完成を見たといっていい。
  この改称に対応する様ににして、対外的に北条氏の代表として、氏政の姿が顕著となっている。  例えば謙信が北条氏を非難する場合、永禄九年までは氏康の名を挙げているが、翌年からは氏政の名を挙げている。 次に、永禄八年から軍事行動の中心は氏政に移され、氏康の出陣は殆ど見られなくなる。  これは実質的な隠居に近い状態といえ、対外的にも氏政を代表として認識されることになった。 出陣が見られなくことと関わるが、「武栄」朱印の使用である。これは「武栄」の印文を刻んだ方形の朱印で、氏康個人が使用したものである。
  現在のところ、これを押捺した朱印状は、永禄九年五月、伊豆狩野牧百姓中に宛てたものが初見である。  注目されるのは、追而書に「虎御判御陣被分候、御本城御印判也」と、虎朱印は戦陣にあるから、「御本城様」氏康の印判で出された事が示されている。 これは本来なら虎朱印で出されるべきものだが、虎朱印は当主氏政の出陣に伴ってその陣中にあるので、代わって氏康の印判で出された事が判る。 以後、「武栄」朱印状は50点以上に及び、主に氏政の出陣に伴って戦場にある虎朱印に替り、領域支配において用いられた。
戦国北条氏三代・氏康「虎・武栄朱印」
虎・武栄朱印
戦国北条氏三代・四代系図
三代氏康代2
四代氏政代

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令和二年・庚子・辛巳・戊子
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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