FC2ブログ

タイトル画像

戦国北条氏・五代

2020.04.20(08:30) 294

**戦国大名・北条一族

**三国同盟破棄~越相同盟へ

   永禄十一年(1568)武田信玄によって三国同盟は破棄された。 
 情勢は急展開し、駿河に侵攻する信玄に対し、北条氏はすかさず今川氏への援軍を派遣し、氏政は小田原を出陣して伊豆三島に着陣している。

   今川氏真は本拠駿府館を攻略されて遠州懸川城(掛川市)に後退するが、北条氏の先陣は富士川を超えて蒲原城(静岡市)に入城している。 そして、北条氏信(宗哲の子)が同城の守将として入城し、河東地域一帯の制圧を遂げている。

   北条氏は外交政策を転換させて謙信との同盟を図り、氏康の三男氏照が書状を送っている。また四男氏邦も書状を送った。 上杉氏からは、同盟成立の為の条件が提示されてきたようで、翌年には小田原在城の氏康が条件の受諾の旨を記した書状を上杉方の沼田在城衆に宛てて送った。
 これ以後、両氏の同盟交渉が順調に進み同盟の成立を見た様だ。  この同盟は、越後(上杉氏)・相模(北条氏)から「越相同盟」と言われた。 さらに氏康は、安房里見氏との同盟成立を模索したが、里見氏から拒絶されている。
  同盟成立の条件は、次のようになる・・・・。

 1  関東管領の譲渡
 2  領土割譲
 3  養子縁組

   
   関東管領の譲渡とは、北条氏のその地位を謙信に譲る事である。 これは両氏間の身分関係にも変化を生じさせた。  北条氏は謙信を「上杉弾正小弼殿」とあて名書きしていたが、その後「山之内殿」とあて名書きを改め、関東管領として目上の扱いをしている。
  領土問題の割譲に関しては、現状で北条氏領国となっている東上野・北武蔵が焦点であり、上野は上杉氏本国という事で謙信に割譲されることになった。 武蔵は基本的には北条氏の領国とされたが、かって上杉氏の勢力下にあった藤田・秩父・成田・岩下・松山・深谷・羽生の各国衆の帰属が問題となり、北条氏は基本的に割譲に応じるが、藤田・秩父領は氏邦の支配領域、岩付領は直接的支配領域となっていたように、現実的には難しかった。
  結局、これ以前から謙信に従っていた羽生領、この同盟を機に謙信に従属した深谷上杉憲盛の深谷領だけが謙信方に帰属した。

   養子縁組は、氏政の子が謙信の養子となってその名跡を継承するというものであった。  養子には次男の国増丸が予定されていたが、余りにも幼少の為氏政が難色を示した。  結局、養子は氏政の末弟三郎に変更され、謙信の本拠春日山城(上越市)で養子縁組を遂げて、謙信から初名景虎を与えられ、上杉三郎景虎と名乗った。
  養子縁組は、この同盟に於いて実現された関東管領職や領土の譲渡を保証するものであった。 その為後に同盟が破綻しても、謙信は景虎を離縁しなかった。 景虎が存在していれば北条氏もそれを尊重せざるを得ず、それらの契約内容が維持されたからである。 後の越後御館の乱による景虎の滅亡をうけて、初めて北条氏は契約の破綻を宣言して上野支配権を主張するようになる。
氏政次男・源五郎(国増丸) 上杉氏への養子予定が景虎に変更
五代氏直代
上杉輝虎(謙信)養子・景虎   ・・・・氏政末弟
上杉景虎
上杉(北条)景虎・・・・・兄・氏照、氏邦
四代氏政兄弟

次回へ

令和二年・庚子・辛巳・癸巳
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


歴史雑学 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<戦国北条氏・五代 | ホームへ | 戦国北条氏・五代>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する