FC2ブログ

タイトル画像

戦国北条氏・五代

2020.04.25(09:30) 295

**戦国大名・北条一族

**武田信玄との戦い

   永禄十二年(1569)、北条氏政は薩埵山(静岡市)在陣の武田勢を撃退し、その地に布陣した。 その後、興津城(静岡市)に在陣する信玄と対峙したが、退路を断たれるのを嫌った信玄は甲斐に帰国した。  氏政は、今川氏真が籠城する懸川城を包囲してた三河徳川家康と交渉して、氏真の救出を工作し、和睦が成立し、氏真は同城を開城して北条氏に引き取られた。

  その後、信玄は武蔵に進軍し、北条方の国衆平沢政実の籠る御嶽城(神川町)を攻撃、さらに氏邦(氏政・弟)の居城・鉢形城(寄居町)を攻撃した。  次に、南進して氏輝(氏政・弟)の居城・滝山城(八王子市)を包囲、さらに小田原に進軍して小田原城攻撃の機会をうかがった。 しかし、小田原城の構えは固く、過去に上杉謙信も攻め倦んだ経緯もあり、小田原から退却し、相模津久井に後退した。 氏輝・氏邦らは三増峠(愛川町)に待ち受けしたが、信玄はこれを突破して甲斐に帰国した。

   信玄は次に駿河に侵攻し、蒲原城を攻略。 守将北条氏信をはじめとする在城衆は戦死した。 北条方の最前線であった薩埵陣も崩壊し、信玄は駿府の再占領を果たした。さらに駿東郡・伊豆に侵攻し、韮山城・興国寺城を攻撃。  これに対し氏政は、小田原を出陣、箱根を超えて敵方と交戦、しかし、守将北条綱成は支えきれずに同城を開城した。
  これにより北条氏は御厨地域を失い、駿河における勢力は駿東郡南部に限定された。

   武蔵北部では、御嶽城の平沢政実が武田氏に帰属。  武田氏との抗争は全体的には劣勢の展開であった。  駿河では薩埵陣・蒲原城・大宮城・深沢城が攻略され、河東地域の大半はその勢力下とされた。 北条氏が確保したのは興国寺城と平山城にすぎず、その勢力は駿東郡南部に限定された。 武蔵においても御嶽城が攻略され、武田氏の勢力が武蔵にも及ぶようになっている。

   北条氏が越相同盟を締結したのは、武田氏との抗争に於いて謙信から援軍を得るためであった。 しかし、謙信からは、越中出陣を理由に援軍は殆ど得られなかった。 その為、北条氏では謙信との同盟の有効性について疑問が出されるようになっていた。 そのような状況の中、北条氏は武田氏と同盟を結ぶのではないかと噂されていた。 これについて、謙信から詰問され、氏康はこれを否定しているが、実際には武田氏との同盟締結も模索されていたとみられる。

   そうした中、氏康は元亀元年8月、重病に襲われた。  どうやら認知症も患っていたと思われ、重要事項も知らず、信玄の伊豆侵攻も知らない様子であったらしい・・・・・? しかし、翌年には謙信に書状を出しているので病状は持ち直したとみられるが、そこには花押を据えず、朱印を押捺しているので自署は出来ない状態であったらしい。 同年十月に、57年の生涯を終えた。 法名は大聖寺殿東陽宗岱大居士といい、菩提寺早雲寺に祀られた。

**氏康の妻・子女

   氏康の正室は今川氏親の娘瑞渓院殿で、長男新九郎・次男氏政・三男氏照・四男氏邦・五男氏規・今川氏真室早川殿・足利義氏室浄光院殿らの母である。
 氏康には側室が何人かおり、六男景虎の母は、重臣遠山左衛門尉康光室の妹であったとみられる。  康光は景虎には母方の叔父にあたり、景虎が越後上杉謙信の養子となって越後に赴くと、それに付されて越後に移るのも、そうした関係に基づくものであろう、以後、康光は景虎の家老となっている。

    氏康の子女は、現在の所八男八女の存在が確認されている。  長男は早世した嫡子新九郎で、天文二十一年に死去、次男が家督を継いだ氏政以降五男氏規まではこの後取り上げる。 六男は景虎で、幼名は西堂丸。 北条宗哲(早雲四男)の婿養子となる。  元服して久野北条氏(宗哲)の当主となり、三郎を称した。   次いで越後上杉謙信の養子となり越後に移り、謙信から前名を与えられて景虎を名乗る。  天正六年(1578)検診の死去により、義兄弟の景勝と家督をめぐって抗争したが敗北、死去した。26歳。
戦国北条氏・墓所  中央が三代氏康墓     (箱根湯本・早雲寺)
後北条氏五代の墓
氏康正室・瑞渓院殿
三代氏康代2
御館の乱に敗れた上杉景虎
上杉景虎

次回へ

令和二年・庚子・辛巳・戊戌
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


歴史雑学 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<戦国北条氏・五代 | ホームへ | 戦国北条氏・五代>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する