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戦国北条氏・五代

2020.05.05(09:30) 297

**戦国大名・北条一族

**上杉謙信との攻防へ・再度

   甲相同盟の締結により、再び北条氏・武田氏と上杉氏との抗争が始まる。  元亀元年(1572)、関東在陣中の上杉氏によって武田方の西上野・石倉城(前橋市)の攻略、倉賀野城(高崎市)における両軍の合戦が始まった。
  一方、それまで武田方とよしみを通じていた常陸・佐竹氏・安房里見氏らが上杉方に属し、下野宇都宮氏らが佐竹氏と和睦し、或は上杉方の常陸・小田氏が北条氏に属すなど、緒勢力の結びつきにも変化が見られた。  それらは何よりも互いの領主間抗争に重点を置いていたため、北条氏や上杉氏といった上級権力の動向が変化すると、連動する様にそれぞれの帰属関係が変化させていた。
  そして北武蔵では、羽生城(羽生市)の木戸氏、深谷城(深谷市)の深谷上杉氏、北下総では関宿城(野田市)の簗田氏が上杉氏勢力の最前線に位置しており、氏政はまずこれらの勢力に対して本格的な経略を進め、秋には氏政が出陣して攻撃を増している。 又、佐竹氏等の北関東の反北条勢力との抗争も展開され、年末までには下野まで進出している。

   天正二年(1574)に入っても、北条氏の関宿・水海両城に対する攻撃は続き、武蔵岩付城代北条氏繁が深谷・羽生両城への攻撃を行っている。 こうして北条氏の攻撃が強まる中、関東諸将の要請に応じて上杉謙信が「越山」し、利根川を越えて武蔵に侵攻、関東諸城を攻撃し下野小山城(小山市)に進み、宇都宮に在陣の佐竹氏の参陣を待った。
  しかし、佐竹氏は、謙信の要請を受けて出陣してきたのだが、謙信に対する不信感から同陣を拒否し、さらには関宿城の扱いについて一任される事を要求した。   この頃、上杉方であった結城氏が再び北条氏に従属している。 
  「越山」をして来たものの、一進一退の戦いに終始、冬を迎えるため越後に帰国している。

   その後、北条氏と佐竹氏の間に和議が成立し、佐竹氏等の仲介により簗田氏は北条氏に従属した、簗田氏は北条氏から赦免を受け、関宿城から退去して水海城に後退し、関宿城は北条氏に接収された。  こうして北武蔵・北下総をめぐる北条氏と上杉氏の攻防は、北条氏の関宿城攻略、上杉氏による羽生城からの撤退により一応の決着が付けられ、武蔵・下総ともに北条氏の勢力下に帰した。

   簗田氏の従属により、もはや公方奉公衆のなかで公方足利義氏=北条氏に敵対する者は無くなり、公方勢力は完全に義氏の下に統一された。 同時に、公方領国全域が完全に北条氏の勢力下に収められた。
氏政弟・・・・氏照・氏邦の正室
四代氏政兄弟
北条氏政夫人墓(右手)・ 氏政・氏照墓    JR小田原駅前
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氏政夫人墓

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令和二年・庚子・壬午・戊申
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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