FC2ブログ

タイトル画像

戦国北条氏・五代

2020.05.10(10:00) 298

**戦国大名・北条一族

**氏政・関東諸将との対決

   まさに、戦国だ。・・・・・・天正三年(1575)、北条氏の経略の標的は下野小山氏、安房里見氏らに向けられた。 こうした状況に対して、佐竹氏、・宇都宮氏は再び謙信と盟約したのをはじめ、謙信と里見氏との盟約、佐竹氏と里見氏の盟約が相次いで成立され、謙信と佐竹氏・里見氏との政治的連携関係が成立した。

   謙信は里見氏からの要請を受けて、九月下旬頃に、「越山」したが、大きな成果を得られずに、十一月初めに帰国した。 もはや謙信の「越山」も大きな効果をもたらさなくなっていた。  そして北条氏は、小山氏の本拠小山城の攻略を遂げ、小山秀綱を佐竹氏のもとえ追った。氏政は小山城を弟氏照に与えている。

   天正四年(1576)、北条氏は再び上総に侵攻した。酒井氏を服属させ、有木城(市原市)を取り立てて里見氏を圧迫した。 翌年、再び房総に出陣し里見方の長南武田氏を従属させた。 さらに里見氏の本拠佐貫城(富津市)を攻撃した末に、里見氏と和睦を結び、同盟関係を成立させた。 さらにその帰路に、常陸小田城(つくば市)攻略の為、下総相馬郡に進軍している。
  これによって以後、里見氏との抗争は見られなくなり、房総半島の情勢は一応の安定を見る事になる。 因みに、この房総への遠征では嫡子・氏直の初陣が遂げられている。

   こうした北条氏の下野進出、房総平定により、佐竹氏らの関東諸将は危機感を強め、上杉氏に頼りに「越山」を要請した。
 そのころ、佐竹氏と結城氏との和睦が成立し、結城氏は北条氏から離反した。  彼らは互いに婚姻関係を結び、佐竹氏を中心に「一統」する状況が生まれ、反北条連合が形成された。  結城氏の離反に対して北条氏は、公方領国防衛の為に新たに飯沼城(坂東市)を築城し、北条氏繁(玉縄四代)を城代として派遣した。

   翌天正六年に入ると、北条氏は陸奥の伊達氏・芦名氏と連絡を取って、いよいよ佐竹氏攻略を実行に移した。  宇都宮氏が北条方の壬生氏を攻撃し、佐竹氏・那須氏らがその援軍として出陣したのを受けて、北条氏は芦名氏・田村氏等、南奥勢力と連携して佐竹氏の挟撃を謀ると共に、壬生氏救援、結城氏攻略のために北下総に出陣した。
  次に、北条氏は結城・山川両城を攻撃、これに対し佐竹氏等北関東諸将は、結城氏救援の為南下してきた。 そして北条氏は結城陣に、佐竹氏らは常陸小川台(下館市)にそれぞれ陣して、両軍は絹川を挟んで対陣することになった。 この両軍の対陣は、双方とも決定的な作戦を遂行することが出来ず、ひと月以上の対陣の末、ようやく停戦となってそれぞれが退陣した。 北条氏は、北関東諸将の連合の前に、立ち往生することになる。
玉縄城(鎌倉市・大船)三代城主・北条綱成  同四代・氏繁(飯沼城代)を拝命
綱成・室・氏繁
大船観音(JR大船駅~) 玉縄城砦跡に造営された
DSCN4090.jpg
玉縄城全景(鳥瞰イラスト)
玉縄城鳥観図

次回へ

令和二年・庚子・壬午・癸丑
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


歴史雑学 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<戦国北条氏・五代 | ホームへ | 戦国北条氏・五代>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する