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戦国北条氏・五代

2020.05.15(09:00) 299

**戦国大名・北条一族

**「御館の乱」

   天正六年(1578)3月、上杉謙信が死去した。 上杉では謙信の家督をめぐる景虎と景勝による家中を二分する激しい抗争が展開された。    「御館の乱」という。 景虎は、かって越相同盟の際に謙信の養子とされて越後に赴いていた氏政の弟であり、その為景虎は兄氏政に援軍の派遣を求めた。
 しかし氏政は、当時下総・常陸国境の絹川に在陣中であった為、直ちに本格的な支援は行えなかった。 その為同盟者の武田勝頼に援軍の派遣を要請するとともに、弟氏邦や新田由良國繁など上野の他国衆を通じて、厩橋北条高広・白井長尾憲景・沼田河田重親らの上野在国の上杉方諸将を凋落し、彼らをもって景虎支援の為の先鋒の役割を担わせた。
  景虎方諸将は、沼田城を攻略そのまま越後上田荘に進攻し、蒲沢城(南魚沼市)等を攻略した。 さらに上田荘の拠点である坂戸城(南魚沼市)まで攻撃を進めた。  氏政は厩橋北条氏・河田氏に蒲沢城の守備を委ね、翌年の氏政自身の進軍を約して、それまでの維持を命じた。
  一方、氏政から景虎支援の要請を受けた武田勝頼は、越後国境まで先鋒を進軍させていたが、上杉景勝と和議を結んだ。 勝頼は景虎と景勝との和睦の斡旋を図ると共に、景勝と正式に同盟(甲越同盟)を締結し、甲斐に帰国してしまった。  ここで勝頼は北条氏との同盟を破棄したわけではなく、氏政・景勝双方との同盟関係の構築を図りあわせて景虎・景勝の和睦成立をも図ったのである。  しかし景虎と景勝との和睦成立は不調に終わり、その為逆に、勝頼と景勝の同盟は景勝方に極めて有利に作用し、景虎方の劣勢を決定づける事となった。
   翌年になると、景勝方の攻撃は強まり、厩橋北条氏・河田氏らの守る蒲沢城は攻撃され、上野に後退した。その後景虎も善戦したが敗れ、滅亡した。 御館の乱は景勝の勝利に終わった。

    この景虎の滅亡を受けて、氏政は上野支配権の掌握を表明し、旧上杉領国と上杉方諸将を領国下に収めた。  かつて越相同盟に際して、北条氏は上杉氏に上野支配権を譲渡したが、それは景虎の上杉への養子入りと一体のものとして認識されていたらしい。 氏政にとって、景虎が滅亡した以上は支配権譲渡も消滅し、再び北条氏が掌握するものと認識していたと考えられる。 こうした経緯から、氏政と勝頼の関係は次第に悪化していった。  甲越同盟の締結にあたって、勝頼の妹が景勝に嫁ぐという両者間の婚姻関係が成立し、景勝は東上野支配権を勝頼に譲渡したとされる。
 ここに、北条氏と武田氏は、共に東上野支配権の掌握を主張する事となった。 北条氏は武田氏に対して警戒心を高め、小田原城の整備を行っている。 これは武田氏との対決を想定したものと見られ、両者の衝突は避けられない状況となっていた。  
上杉輝虎養子・北条景虎(氏政異母弟)
上杉景虎
景虎兄弟・北条氏照・氏邦(異母兄)
四代氏政兄弟
小田原城・堀端
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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