FC2ブログ

タイトル画像

鎌倉北条氏

2017.01.20(10:17) 30

**幕府内部の対立

*御家人の反感

いずれにしても急速に成りあがった北条氏に対して、一般御家人の反感は小さいものではなかった。 とにかく御家人たちの反感は無視できぬまでなっていた・・・・・・・・。

鎌倉幕府は日本最初の武家政権だと、よく言われます。  確かに東国武士が一致して平氏と戦い樹立したものだが、内実はそれほど簡単ではない。
源平合戦を戦って幕府を樹立するには、東国武士は大きく貢献した。しかし彼らには、法律を作ったり文書を作成したりする能力は、全く欠けていた。  ですから大江広元、三善善信、大中臣秋家など、下級の貴族たちが京都から下向してきたのです。  京都では下級であったから、かえって実務は練達していた。

成立したばかりの幕府には、東国武士と京下貴族とが混在する集団であった。  また時政を中心とする伊豆武士団と三浦党中心の相模武士団の間にもすでに隠微な対立があった。 そのほかにも、様々な対立があったに違いない。
しかし、頼朝がいる間は、その存在が大きな重石となって、御家人間の対立が表面化することはなかった。  正治二年(1199)正月、その頼朝が死亡したのです。  二代目を継いだ頼家(yoriie)は、育ちが良すぎて、重石の役など果たせるわけがなかった。

頼朝は頼家の後見に梶原景時・比企能員を据えたので、北条氏は頼家政権に対して存亡をかけた権力闘争を仕掛ける必要がありました。将軍・頼家の周囲は梶原景時・比企能員・小笠原長経(nagatune)・糟屋有季(aritosi)と云った腹心たちで固められた。 北条氏では時政の末子時房(tokifusa)が側近に加わるのみでした。  本流から外された北条氏は、頼家の弟千幡(後の実朝)の擁立を目指して反主流派を形成し、頼家政権から外された三浦義村・結城朝光・足立景盛(kagemori)・平賀朝雅(tomomasa)と云った幕府草創に尽くした重臣を味方につけた。

果たして、鎌倉は騒がしくなった。最初の標的は意外にも二代将軍頼家であった。  頼朝の専制的支配には黙って服従してきた御家人たちが、13人の宿老会議を組織して、頼家の権力の一部を取り上げたのです。  (13人宿老メンバーは以前既述したのでここでは省略する)

注目すべきは、北条時政・義時父子が含まれていることです。 因みに時政は、かつて京都守護を任じてからは、今まで幕府の要職に就任したことがありませんでした。 それが今度は幕府の役職に初めて就任したのです。
鎌倉での波乱の第二弾は、頼家の側からの反撃でした。  頼朝の流人時代からの近侍安達一族を、頼家が追討しようとしたが、母の政子が体を張って諌めたので、事は未然に終わった。

*梶原景時

当時、侍所次官に任じていた景時は、頼朝の信頼が厚かったが、頼朝が没した後、他の御家人たちからの弾劾状が大江広元を通じて頼家に提出された、御家人66名のなかに、北条父子の名は無かった。
頼家に諮問された景時は、一言の抗弁もせず退出し、暫く相模一之宮の所領に引退したが、翌年正月、一族を率いて上洛するところを、駿河清見ヶ原で討手に捕われて続滅したと「吾妻鑑」には書かれています。
梶原景時公没800年忌供養塔(鎌倉市・梶原御霊神社)
梶原景時・供養塔
梶原景時を祀る・御霊神社  (鎌倉市・梶原)
梶原・御霊神社


しかし、京都の公卿九条兼実(kanezane)の 「玉葉」 には、全く違うことが記されています。 御家人の間に頼家を倒して弟千幡丸(実朝)の擁立を図る陰謀があり、これを察知した景時が頼家に報告したが信用されず、逆に鎌倉を追放されて続滅したと云うのである。
「吾妻鑑」・「玉葉」と、いづれが真実なのか、・・・何れにしても13人の宿老会議、安達氏追悼事件、そして梶原事件に共通していることは、頼家と御家人の間に対立が有ったことが見てとれます。
この対立を利用して裏で暗躍したのが、時政であったと考えています。 それは、やがて頼家を伊豆修善寺に追放して千幡丸を三代将軍に擁立したのは、まさに時政であった。

*時政の台頭

鎌倉幕府には、椀飯という風習があった。 (詳細は以前記述した)
正治二年(1200)の元旦の椀飯役を勤めたのは、時政だった。 つまりは頼朝生存中は鎌倉殿御外戚という事で、一般御家人の例外にあった時政が、頼朝が死亡したことで御家人の列に落ちたが、それでも御家人の中でのナンバーワンの位置を与えられたという事である。
同時に、時政は遠江守(toutouminokami)に任じられた。 これは准門葉(jiyunmonyou)に叙せられたのです。  時政の外孫・頼家は、時政を一般御家人とは別格の鎌倉殿御外戚という立場から引きずりおろしたが、生母政子の思惑を考慮に入れてか、一般御家人中でのナンバーワンで准門葉という地位を与えたという事でしょう。
しかし、頼家と対立した御家人たちの最先峰となっていたのが時政だったのである。 次回に続く 
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


興隆と滅亡 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<鎌倉北条氏 | ホームへ | 鎌倉北条氏>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する