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戦国北条氏・五代

2020.05.20(09:30) 300

**戦国大名・北条一族

**徳川家康と結ぶ

   天正七年(1579)8月、武田勝頼は、駿河に出陣し、伊豆国境に沼津城(沼津市)を構築して北条氏に対して公然と敵対行動を執った。  さらに佐竹氏ら反北条方諸将との連携を図り、両者間に同盟が成立していた。  佐竹氏等は、小山・榎本への攻撃を断続的に継続しており、勝頼との盟約成立を受けて、さらに常陸土浦(土浦市)森屋(守谷市)・古川を攻撃した。
  こうした勝頼の敵対行動に対して、氏政は遠州徳川家康と盟約し、軍事行動を連携して勝頼の挟撃を狙った。  そして下野・下総に進攻してきた佐竹氏等に対しては、嫡子氏直を出陣させ、氏政自身は伊豆に出陣し、同時に泉頭城(静岡・清水町)等を構築して防御を固めた。
  そして両軍は伊豆・駿河国境の黄瀬川を挟んで対陣した。 ここに、北条氏と武田氏は、本格的な抗争を開始した。 北条氏は徳川氏と武田氏は佐竹氏等とそれぞれ盟約関係を結び、互いに遠交近攻策を取って対抗したのである。 氏政は家康と盟約したうえで、さらにその同盟者である織田信長への接近も図った。

   黄瀬川での対陣は双方に決定的な動きは無く、年末には氏政が対陣し、これを受けて勝頼は伊豆に進攻に進攻したうえで、甲斐に帰国している。
  しかしその間に、勝頼は厩橋北条高広・那波顕宗・河田重親・白井長尾憲景ら北条氏に属す旧上杉方の国衆の調略に成功し、彼らをもって氏邦の家臣が在城していた沼田城を攻撃させている。 これにより上野において北条氏に従属する国衆は、御館の乱以前からの由良國繁・館林長尾顕長・富岡六郎四朗のみとなった。  また佐竹氏等の侵攻は、下野小山から下総古河・森屋に至る広い範囲に渡って断続的に行われており、さらに上野・武蔵国境地域でも北条・武田両軍の抗争が展開され、北武蔵最大の拠点である氏邦の居城鉢形城が武田の攻撃にさらされた。

   武田氏との抗争は、氏政にとっては劣勢の展開であったと言える。その為天正八年(1580)、氏政は織田信長に再び使者を派遣した。  この時の使者派遣の趣旨は、「御縁辺相調え、関東八州御分国に参る」というものであった。  織田氏側の認識ではあるが、氏政は北条氏と織田氏との婚姻関係の成立を要請し、これをもって北条氏はその領国を信長の領国のうちに参じる事を申し出た。 言うまでもなく、これは北条氏の信長への従属の表明を意味した。

   氏政は勝頼の攻勢の前に、ついに中央政権織田氏の麾下に属す道を選択したのである。 因みに、両氏の婚姻関係については、嫡子氏直に信長の娘を娶るという約束が為された。 また、北条氏の領国は「関東八州」と称されているが、北条氏が現実に関東全域を領国化しえていないことは言うまでもない。 これは北条氏の関東全域の領有を信長が承認した事を意味していると捉えられている。

   信長への使者派遣ののち、氏政は再び家康と軍事行動を連携し、伊豆に出陣して六月初めまで伊豆・駿河国境で勝頼と対陣していた。一方、武田勢の伊豆方面への侵攻を受けて、再び家康との連携の上で氏直が伊豆に出陣している。
JR小田原駅~小田原城
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小田原城~JR小田原駅
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令和二年・庚子・壬午・癸亥
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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