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戦国北条氏・五代

2020.05.25(07:00) 301

**戦国大名・北条一族

**家督・交代と織田政権への従属

   天正八年(1580)8月、氏政が氏直に「軍配団扇」を譲渡している。  軍配団扇とは軍勢を指揮する為の団扇で、いわば軍事指揮権を象徴するものである。 軍配団扇が氏政から氏直へ譲渡されたという事は、その軍事指揮権の譲渡を意味するから、すなわち、家督の委譲を示している。  
 その時期は、氏直が伊豆に向けて出陣する直前であった可能性が高い。 「軍配団扇」の譲渡は、その出陣に際して行われたと推測される。 

   それではなぜ、この時期に家督の交代が為されたのか。 直接の理由を示す史料は見当たらないが、おそらく信長に派遣していた使者が帰国し、氏政の申し入れに対する返答が伝えられ、これを受けて、信長の娘婿となるべき氏直を一刻も早く家督に据える必要が生じたのであろう。 その為氏直の出陣にともない、実質的な家督の交代が為されたのではないかと考えられる。
  北条氏は、織田政権への従属の道を選択した事で、その実現の為家督の交代が為されたとみられる。  この後、氏政は「御隠居様」と称され、「截流斎」の斎号を称した。
  一方の氏直は「御屋形様」、その陣中は「大手」と称されることになる。 氏政は四十三歳、氏直は十九歳であった。  翌年には軍役改定、検地に代わる増反銭の設定などの、「代替り」政策が行われた。  もっとも、隠居とは言っても立場は当主と同等であり、権力から離れたわけではない。 事実、氏康がそうであったように、氏政においても実質的な北条氏権力の最高指導者として君臨し、当主氏直を立てつつ、実質的には北条氏権力を主導していくのである。

   天正九年3月、徳川家康は遠江における武田方の最大拠点である高天神城(静岡・大東町)の攻略に成功し、これにより武田氏は遠江からの実質的な撤退を余儀なくされ、その衰勢は決定的となった。 これを受けてか、氏政は相模津久井衆・武蔵滝山衆らを甲斐郡内に進攻させている。
  さらに、武田方の西上野国衆の宇津木下総守を凋落し、、白井長尾氏の凋落にも成功している。  他方、佐竹氏等は榎本城を攻撃するなど、小競り合いが続いている。

   北条氏は八月、沼津城に対する向かい城として新たに徳倉城(清水町)を構築。  同じころ、伊豆在陣と見られる大藤式部少輔政信が天神ヶ尾城を攻撃し、さらに徳倉在城衆が沼津城を攻撃している。  徳倉城には伊豆郡代笠原新六郎政晴が在城した。 彼は宿老・松田憲秀の長男であったが、笠原姓を継いでいる。詳しいことは不明である。
  ところが天正九年10月、その笠原政晴が武田方の沼津城将曽根河内守の調略によって、武田氏に寝返るという事態が生じた。 これを受けて勝頼は、その支援の為援軍を派遣し、さらに自身も駿河に出陣した。  又氏政・氏直も伊豆に出陣し、両軍は再び国境に於いて対陣した。 しかし、ここでも双方ともに決定的な動きは無く、冬を向かえ帰国している。

    北条・武田両軍がそれぞれ退陣した頃、織田信長からからの死者が徳川家康の許にもたされ、来春における武田氏攻めが通知されていた。 明けて天正十年(1582)、信濃の木曾義昌が武田氏から離叛して信長に従属した。 これを皮切りに、信長の嫡子信忠、重臣滝川一益らを先陣とする織田軍の武田領国への侵攻が開始された。 続いて家康も駿河に進攻した。
戦国北条氏・五代氏直系図
五代氏直代
北条氏政・氏直の朱印
虎・武栄朱印
小田原城・銅門
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令和二年・庚子・壬午・戌辰
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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