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戦国北条氏・五代

2020.06.05(08:30) 303

**戦国大名・北条一族

**織田信長の死~

    氏政も信長死去とその後に情勢については、徳川家康から連絡を受けていたようであり、滝川一益に書状を送り、「京都の様子」について実儀を尋ねている。  さらに氏政は、当方に対して少しも疑心を抱く必要のないこと、氏政父子に相談してくれたなら何事も精一杯協力する事を伝えている。

    おそらく、信長死去により北条氏・滝川氏ともに互いに「疑心」を抱き、武蔵国境地域の情勢が不安定になったのであろう。  その為北条氏は深谷に軍勢を派遣し、滝川氏も同様の動きをみせたと見られる。
  しかし、氏政が協力を申し出ているのはあくまでも社交辞令といえ、すでに武蔵国境に軍勢を派遣していることから見ても、両者の政治的対立は決定的であった。  そもそも北条氏は、上野半国の領国化を遂げていたにもかかわらず、それらが従属する国衆領であった事から、織田氏の東国進出に伴って、事実上の撤退を強いられていた。
  信長死去を契機に領国の回復を図った事は十分に考えられる。  根底には一益に従わざるを得ない状態にいた、国衆の思惑もあったとみられる。 そして数日後に両者は手切れとなり、氏直を大将とする北条軍が上野倉賀野を攻撃し、戦いは始まった。
  初戦では先陣を務める北条氏邦勢と上野国衆勢が激突して滝川方が勝利したが、続いた、氏直軍と一益軍との本軍同士が激突し、此処では氏直軍が大勝する。  敗れた一益は小諸城まで後退し、態勢の立て直しを図ったが、すでに上野国衆や東信濃の国衆のほとんどが北条氏の調略に応じた為、本国伊勢へ後退した。

**徳川家康との同盟

   滝川一益が上野・東信濃から没落すると同時に、信濃に配置されていた他の織田氏諸将も没落し、甲斐や信濃における織田分国はたちまち崩壊した。  そして俄かに空白地となったそれら旧織田分国に対しては、東信濃へは一益を追撃する形で北条氏が、北信濃へは越後上杉景勝が、甲斐・南信濃へは遠江徳川家康が進軍し、それら周辺大名の草刈り場となった。

   滝川軍を追撃しつつ信濃に侵攻した氏直は、真田昌幸ら小県・佐久両郡の国衆から出仕を受け、同時に諏訪郡の諏訪頼忠の従属に成功している。  一方、徳川家康は甲斐を制圧した後、信濃の経略を進め、先陣の酒井忠次が諏訪に侵攻するが、諏訪氏が徳川氏に従属しないため同氏を攻撃する。   諏訪氏は援軍を氏直に要請し、その為氏直は諏訪郡に向けて南進した。  さらに、先鋒の上野国衆小幡信真の軍勢が、諏訪高島城をする徳川軍に迫っている。
  ここに信濃領有をめぐり、北条氏は徳川氏との抗争を展開することになった。 氏直の進軍を受けて、諏訪在陣の徳川軍は甲斐に後退した。 氏直はこれを追って甲斐に侵攻し、新府城に在陣する家康と対陣した。

   ところが、信濃の真田昌幸が徳川方に寝返り、家康と連携した佐竹氏ら北関東諸将による上野・下野への侵攻がみられた。 また、家康も北信濃をめぐる上杉氏との攻防があり、織田信長の遺子信雄の勧めもあり、北条・徳川両氏は和睦を結ぶことになった。  さらに、家康の娘が氏直に嫁すという婚姻関係も約され、両氏間の和睦は同盟関係へと転換した。
信長の死後・・・上野での初戦で先鋒を務めた氏邦(氏政弟)
四代氏政兄弟
北条氏政・氏照兄弟・墓所・・・・・JR小田原駅付近
北条氏政・氏照墓

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令和二年・庚子・癸未・己卯
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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