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戦国北条氏・五代

2020.06.10(07:00) 304

**戦国大名・北条一族

**北条氏・関東統治へ

   ここに北条氏は、徳川氏との同盟締結、それによる国分により上野一円の領有権を確保した。しかし徳川氏から割譲を約された真田氏領の帰属問題は、この後直ちには解決されず、やがて訪れる小田原合戦への伏線を成す。

   家康との和睦により、氏直は天正十年11月に武蔵に退陣し、さらに小田原に帰陣した。 その一方で、離反した真田氏と味方の白井長尾氏らとの抗争が北上野に於いて展開され、北条氏は再び北上野に出陣した。 ここで上野国衆に参陣を要請したが、厩橋北条氏はこれに応じずさらに離反した為、北条氏はこれを攻略の為、利根川西岸の石倉城・惣社城を攻略。 次いで利根川を越え厩橋領侵攻した。 厩橋北条氏はこれに対して、越後上杉氏に服属を表明して、その援軍派遣を要請するとともに、佐竹氏、宇都宮氏らの反北条諸将とも連携を図った。
 佐竹氏等は、要請を受けて下野の皆川領と佐野領の中間迄出陣してきた。  その為北条氏は、厩橋領への侵攻を諦め一旦帰陣している。


   このような時期に、徳川家康の娘、督姫が小田原に着輿して、氏直との祝言が行われている。  この婚姻の成立により、徳川氏と真田氏領の沼田・吾妻二領の北条氏への割譲が正式に成立した。

    そして祝言の後、北条氏は厩橋北条氏の本格的な攻略に掛かり、秋口迄には攻略を完了している。  
  北条氏は圧倒的な実力を背景に、上野・下野にたいして本格的な攻略戦を展開したのである。 こうした状況に対し、吾妻・沼田領の真田氏は上杉氏と、また、佐竹氏・宇都宮氏・結城氏らの北関東の反北条方諸将も上杉氏との連携を遂げた。 さらに上杉氏を通じて京都の羽柴秀吉との結びつきを図っていた。 いわば広範な外交活動を展開する事によって北条氏の攻勢に対抗しようとした。

 北条氏の北関東への本格的な進出に際して、北条氏の権力的性格に大きな変化をもたらす事となったのが、関東の「将軍」である古河公方足利氏の断絶である。 古河公方足利義氏は死去したが、嫡子が無く、僅かに二人の娘が存在していたにすぎなかった。 その為に後継者を直ちに立てられなかったのである。
  義氏の葬儀は北条氏の主導の下に行われ、古河公方権力は完全に北条氏に包摂された。 さらにこの後、古河公方領国そのものを北条氏の直接的な支配下に治められて、名実ともに公方領国は北条氏の領国に併合された。

**関東領支配

   関東領支配は「御隠居様」が担い、同時に、同領に隣接する武蔵の江戸地域と岩付領の支配も管掌して領域支配体制の整備を図った。 そしてそれらの領域に対する一体的な支配体制を確立することになる。
  氏政によるこの三領支配の掌握は、同時に利根川水系と常陸川水系の掌握をもたらし、関東の流通・交通体系に決定的な影響力を与えるものであった。  その為北関東の反北条勢力は、北条氏に対する従属か、徹底抗戦かの選択を迫られる事となった。

   古河公方の事実上の断絶により、北条氏に実質的に包摂された事で、それまで有していた権力も次第に北条氏に移っていった。 例えば関東の国衆に対する官途補任は古河公方の権限であったが、以後、北条氏がこれを行っている。 国衆に対する官途補任権の事実上の掌握は、北条氏が関東における身分秩序体系のの頂点に位置し、構築者としての地位にたった事を示している。
  これにより、北条氏が「関東管領」という政治的地位をこえて、実質的な「関東将軍」化を遂げたことを示していよう。

功徳山早雲禅寺・天嶽院 山門   (藤沢市・渡内)
天獄院山門
天嶽院・参道・・・・・(伊勢新九朗盛時創建) 

DSCN5897.jpg
天嶽院・本堂・・・・・座禅道場が隣設されている
天獄院本堂

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令和二年・庚子・癸未・甲申
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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