FC2ブログ

タイトル画像

戦国北条氏・五代

2020.06.20(09:00) 306

**戦国大名・北条一族

**北条氏権力を支えた氏政の兄弟

   永禄年間以降の北条氏権力に於いて、当主氏政・氏直を支えた中心的な存在は、氏政の弟たちである。
  彼らは氏政の兄弟衆と称され、軍事・外交、さらに領域支配と、あらゆる側面において大きな役割を担っていた。 氏政の弟は、氏照・氏邦・氏規・景虎がいたが、このうち景虎は越後上杉氏の養子となった。 その為兄弟衆と言った場合,それは具体的には氏照・氏邦・氏規の三人であった。

ⅰ 北条氏照

   氏康の三男で、母は瑞溪院殿とされる。  生年については諸説があり、天文九年、十年、十一年の説があるが、何れも後世の史料によるもので確定は出来ない。  北条氏作成の系図類のなかで最も充実した内容の「狭山藩史料一」 所収北条家系図では、天文九年生まれとしているから、これを使う事にする。
  史料上の初見は下総葛西城で行われた古河公方足利義氏の元服式で、父氏康に従って参加している。 十六歳。後に氏照は足利義氏の後見役を勤めるが、この元服式に参加した御一家衆は氏照だけであるから、すでにこの時から予定されていたとみられる。

   続いて、相模東郡座間郷鈴鹿明神社(座間市)再造棟札銘に、大旦那として「北条藤菊丸」の名が見える。 同郷は武蔵由井城(八王子市)を本拠とする他国衆大石綱周の所領であった。 藤菊丸は、大石綱周の婿養子となってその家督を継承するが、この時点で養子となっていた事が確認される。 さらに綱周についての史料上の初見が前年までしか見られないから、この時点ですでに家督を継承していた可能性もある。

   永禄二年(1559)十一月から、氏照は由井領支配の為の朱印状を発給している。  朱印は、「如意成就」の印文を刻んだ方形の物で、この後、同十二年七月までの使用が確認されている。 ちなみに、その後の印判は、印文未詳の別朱印を使用している。

    永禄四年(1561)3月に、「大石源三氏照」と署名しており、大石名字、仮名源三、実名氏照が確認される。  大石名字は、大石氏の家督を継承した存在であることを明確に示し、元服もしくは家督継承に伴って称したとみられる。 仮名源三は、養父綱周のそれを襲用したものである。 また、在城名をとって「由井源三」と称されることもあった。
  元服は、弘治二年から永禄四年のことになるが、年齢的な事を考えると、弘治二年がからそれほど下らない時期に行われたのではないかとみられる。 名字についてはその後、越後上杉謙信に送った書状で「平氏照」と署名しており、平姓=北条名字に改称している。 仮名源三は天正三年まで確認され、受領名陸奥守を称している。  「北条陸奥守」は、鎌倉幕府執権北条氏に於いては、相模守・武蔵守に次いで北条氏の有力者が称する由緒のあるものであった。 氏照の同受領も、そうした由緒を踏まえたとみられる。

   氏照は、その本拠を二度に渡って移転している。 永禄三年に由井城が攻撃され。おそらく、上杉氏に応じた周辺の敵対勢力によるものと思われる。 氏照は上杉氏の来攻に際しては同城に在城し、支配領域の維持に努めた事が窺われる。
  北条氏は謙信方に属していた武蔵勝沼領の三田綱定を滅亡させた。その支配領域はすべて氏照に与えられ、氏照は大石氏の由井領に加え併せて領有する事となった。

   永禄六年4月から十年9月までに、滝山城(八王子市)を新築し、本拠を移した。  上杉氏との攻防に対応する為で、これにより、その支配領域は滝山領と称された。 その後、天正九年には八王子城を新築し本拠を移した。  ちょうど甲斐武田氏との抗争が展開されて時期にあたるから、それへの対応とも考えられる。
北条氏照墓 (兄氏政と共に一時この地に葬られた)
北条氏政・氏照墓
北条氏照朱印
名将・印判
玉縄北条氏・供養塔   (鎌倉市植木・龍宝寺)
玉縄北条・供養塔

次回へ

令和二年・庚子・癸未・甲午
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


歴史雑学 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<戦国北条氏・五代 | ホームへ | 戦国北条氏・五代>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する