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戦国北条氏・五代

2020.06.25(08:00) 307

**戦国大名・北条一族

**氏照の動向・続

   氏照は、他国衆に対する指南(取次)を多く勤めている。  永禄五年(1562)には下野佐野氏に対して勤めているのをはじめに、上総勝浦正木氏、武蔵忍成田氏、上野厩橋北条氏・那波氏、下総関宿簗田氏、同栗橋野田氏らの古河公方家臣、下総結城氏、下野壬生氏、常陸佐竹氏、牛久岡見氏、足高岡見氏、陸奥芦名氏・白川氏、田村氏、伊達氏等が確認されている。
  古河公方勢力及び下野国衆、陸奥大名層が多くみられるのが特徴である。 受領名に陸奥守を称したのは、こうした陸奥の緒領主との関係に基づいていたかも知れない。

   古河公方足利氏との関係は、永禄十年に公方家宿老の簗田氏・野田氏に対して、北条氏への従属を取り次いだ事から明確に見られるようになる。 この後、野田氏は本拠栗橋城(五霞町)から退去させられ、北条氏から在城衆が置かれた。 後に氏照が管轄したとみられるので、在城衆も氏照の軍勢であったとみてよいだろう。

   さらに氏照は栗橋衆を由井城在番に充てるため、前城主野田景範にその間の栗橋在城を要請している。 しかし、北条方としての野田市の存在はこれを最後に見られなくなり、その後、妻の実家簗田氏との関係からか上杉氏に従属したようである。  これに対し北条氏は、元亀三年(1572)12月に、これを攻略し、城主野田景範を追放している。 同城とその支配領域は氏照に与えられ、城代に家老布施美作守景尊が置かれた。  

   氏照が古河公方足利義氏の後見役を務めるのは、これより後の事で、天正二年(1574)2月から確認される。 この時、義氏は古河城に、氏照も栗橋城に在城していたようである。 こうした両者の一体的関係の形成を受けて、氏照はその後見役を果たすようになったとみられる。  この後、氏照は北条氏と古河公方家の両者間における取次を一身に担い、北条領国内に所在する義氏御料所支配を管轄した。

**氏照の妻子

   天正十八年(1590)の小田原合戦において、氏照は本城小田原城に籠城した。  合戦後、その責任を問われて、兄氏政と共に自害した。  五十一歳   
  妻は養父大石綱周の娘と見られる。  大石氏関係の系図類では、前代の道俊の娘とするものが多いが、氏照とは世代が合わないうえ、それらでは通俊の子綱周の存在が脱落してしまうので、誤って伝わったとみられる。  名は「お豊」とも「比佐」ともされ、天文十六年の生まれで、文禄三年の死去、享年48歳と言う説もあるが、別の史料では天正十八年の八王子城落城と共に死亡したとの説もあるので、この説を取りたい。
 
  氏照は男子が無かったため、兄氏政の子を養子にしたが、二名が伝わる。  四男直重であり、その養子から数代は大石名字を称している事から見て、事実であった可能性は高い。  その後直重は下総千葉邦胤の婿養子として家督を継承し、そのまま小田原合戦を迎えるから、氏照の養子となったとすればそれ以前の事であったと推測される。
 もう一人は源蔵である。 「源蔵」は氏照の仮名源三と同意であるから、氏照のそれを襲用したと考えられる。 氏照の養子となったとすれば、兄直重が千葉氏の養子になった後、それに代って養子とされたと推測される。 
戦国北条氏・五代の墓  (箱根湯本・早雲寺)
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小田原城で自刃した氏政・氏照兄弟の墓 (JR小田原駅付近)
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北条氏政・氏照墓

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