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戦国北条氏・五代

2020.07.05(09:00) 309

**戦国大名・北条一族

**氏邦の上野支配(続)

   新たに箕輪領が形成され、支配は氏邦に委ねられた。 滝川一益没落直後に箕輪極楽院に寺領を安堵しているから、直ちに氏邦は同領支配を担ったとみられる。  これは北条家当主の領域支配権を前提としたものであり、氏邦はそのなかで城付領における検地、年貢・公事収取、家臣らへの知行安堵・充行などの権限を認められた。
  北条氏本国地域における玉縄領・小机領・三浦郡と同様の性格のものととらえられる。 その意味で、本領である鉢形領支配とはせ格が異なった。

   天正十五年(1587)になると、その権限は大幅に拡大されたようで、事前に北条氏当主の了解を得るなどの事が見られなくなっている。 これと同時に、箕輪城には家老猪俣能登守邦憲を城代として据えている。 また、吾妻・沼田二領の真田氏に対する前線拠点として大戸城(東吾妻町)を取り立て、重臣斎藤摂津守定盛を城代に据えて、周辺地域支配を管轄させている。
  この箕輪城・大戸城を中心とした新たな領域編成に伴って氏邦の権限も拡大され、そのもとでの城代の任命であった。 これは、羽柴秀吉の裁定によって上記二領が真田氏から引き渡された結果で、これを氏邦に与えられ、それぞれに家臣を城代に置き、箕輪領に加え沼田領支配をも担った

**小田原合戦後の氏邦

    天正十八年(1590)の小田原合戦において、氏邦は居城鉢形城に籠城した。 同城への羽柴方の攻勢は、六月初旬頃から行われたようである。 六月七日付で羽柴秀吉が家臣加藤清正に宛てた書状には、「北条安房守御詫言申し上げ候へ共、聞こし召し入れられず」と述べているから、攻撃前後に氏邦は降伏を申し出ていた事、しかし、秀吉はこれを受け入れなかった事が窺われる。 そして鉢形城は開城した。

   これについて秀吉は、同じく加藤清正に宛てた書状で、「武州鉢形城北条安房守居城候を押し詰められ、則御成敗有るべしと思し召され候所に、命の儀はお助け成され候様にと御詫言申し上げ候に付き、城を受け取られ候、安房守剃髪し山林(隠遁)へと述べている。  氏邦の隠遁先は、花園城下の正龍寺と言われている。

**氏邦の妻子
   
氏邦の妻は、養父藤田泰邦の娘で大福御前と称されている。  天文十年生まれで、文禄二年に死去している。 享年は五十三歳、法名は貞心院殿花屋宗栄尼大姉といった。
  子女については、四人の男子と養子として氏政の五男直定があった。  長男に関してはよくわからず、次男は出家して鉄柱と称した。 
  三男以下は、小田原合戦時には幼少であったとみられる。   四男に関しての消息を前田家の「利家夜話」に見られる、初め京都紫野大徳寺で喝食となっていたが、慶長二年父氏邦が死去すると、利家は彼を召し出し、元服させ北条庄三郎と称させ氏邦の遺領1000石を相続させたという。 その後、通称采女と改め、利家の甥前田慶次郎の娘を妻に迎えた。
早雲寺山門・・・・箱根湯本
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早雲寺本堂の三つ鱗紋
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早雲寺・庭園
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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