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鎌倉北条氏

2017.01.24(16:40) 31

**幕府内部の対立

*比企能員(hiki・yosikazu)

それから、三年位は平穏な時が過ぎた。  しかし時政にとっての敵が次第に力を増し、その地位を脅かし始めたのです。 武蔵比企郡の大豪族比企能員(hiki・yosikazu)である。
頼朝生存中は、時政はその岳父という事で、鎌倉殿御外戚だった。  そして今、その地位に比企能員が付いたのである。つまり、能員の娘若狭局(wakasanotubone)は、すでに頼家の一子一幡丸(itimanmaru)を生んでいた。
源頼家嫡子・一幡丸袖塚 (鎌倉市・大町 日蓮宗妙本寺境内)
一幡君・袖塚
比企氏一族・・墓所 (鎌倉市・大町  日蓮宗・妙本寺墓所)
比企一族・墓所

この間、時政は着々と手を討った。 子の北条時房(義時の弟)を、頼家の近習の中に送り込こんだ。
また、嫡孫北条泰時(yasutoki)を三浦義村の娘と結婚させたのもそれだ、三浦半島に精鋭を擁する三浦党と、手をむすんだのである。直後に、三浦義村が土佐国守護に任じられたのは、時政からの引き出物だったのでしょうか・・・・・。

頼家の側でも時政の陰謀に気づかないでもなかった。 しかし情報が正確でなかったようで、時政は頼家を廃立して、かわりに阿野全成(zenjiyou)(頼朝・異母弟)の擁立を画策してると、誤解したようである。
何れにしても頼家は、先手を打った。 建仁三年(1203)5月、突然、阿野全成を召し取り、翌日には殺害したのです。  頼家としては、これで陰謀を粉砕出来たと思ったかも知れません。
しかし、時政が頼家の代わりに考えていたのは、全成ではなかった。 弟の千幡丸(実朝)だったのだから、全成を殺されても影響は全くなかった。 時政は好機の到来を待ったのです。
同年九月、比企氏の乱が起こります。(時政の待ったのはこれです)  比企氏の乱は、比企能員が北条時政に招かれて名越邸(nagoetei)で暗殺された後、北条氏が小御所(一幡の御所)に籠る比企氏を攻め滅ぼした事件をいいます。幕府の記録 「吾妻鑑」は北条政子が比企氏の謀反を宣言して討伐したと記録されている。一方天台座主慈円の歴史書 「愚管抄」 は時政が私兵を率いて攻め滅ぼしたと記録しています。
比企氏を滅ぼした軍勢を反乱鎮圧と見るかクーデターと見るかでは、解釈が全く違います。  何れにしても、比企氏の乱で支持勢力を解体された頼家は出家に追い込まれ、源家将軍主導の政治体制は終わった。次回に続く

丁酉・壬寅・辛亥
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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