FC2ブログ

タイトル画像

戦国北条氏・五代

2020.07.10(07:00) 310

**戦国大名・北条一族

**家康との連携

   織田信長が本能寺で明智光秀に討たれて、以降・・・戦国の時代は混沌とした状況だ。 北条氏にとっても先の見通せない難しい状況にあった。

   天正十三年(1585)になると、羽柴秀吉は畿内、四国、北陸を相次いで制圧し、中国地方の毛利輝元、北陸の上杉景勝との領国境を画定して、畿内を中心とした羽柴領国を確立している。  さらに、その間に旧主筋の織田信雄を従属させ、7月には関白に任官して、武家政権の首長としての政治的地位を確立させた。   そうして秀吉は、同年六月ごろから家康・北条氏討伐の意を広く表明した。

   北条氏の家老二十人の起請文が徳川氏に送られ、徳川氏からも国衆・家老衆の起請文が北条氏二送られている。 これはそうした状況に対して、北条氏と徳川氏が改めて互いの同盟関係を確認したものだろう。
  具体的な内容は、「凡そ徳川氏とが再び抗争に至った場合には、北条氏は徳川氏を支援する」というものであった。  秀吉の来攻に備えて、両氏は互いの同盟関係のさらなる強化を図ったのである。

   しかし、家康の譜代家老の石川数正が秀吉のもとに出奔し、譜代家老の出奔は家康に大きな衝撃を与えた。  こうした秀吉による家康に対する政治的圧迫を踏まえて、翌年正月、秀吉の意を受けた織田信雄が、三河岡崎(岡崎市)に来訪した。  家康と会面して、両者間の関係の周旋を図ったのである。 これによって、家康はついに秀儀との和議の成立を決し、二月に和議が成立する。  それから1か月後の三月上旬に、北条氏政と家康は伊豆・駿河国境に於いて会面した。両者の会面は、家康から氏政に申し入れたものであった。 まず、家康が北条領国・徳川領国の領境である喜瀬川を超えた伊豆三島(三島市)に赴き、次いで、今度は氏政が喜瀬川を超えて駿河沼津(沼津市)に赴いて二度に渡って会談が行われた。 そして面会後、家康は沼津まで北条方見送られたが、その際、三枚橋城(沼津市)を破却している状況を見せ、また取次の任にある北条氏規に、三枚橋城の兵糧米1万俵を遣わして、北条領に対する武装解除の姿勢をアピールしている。

   氏政・家康の会面により、両者間の親交が深められたが、この会面は、家康から申し入れたものであり、家康は北条領に対する国境防衛の解除を示しているように、家康が極めて低姿勢に立って行われている。 これは、今後における秀吉への対応での連携を強化するためのものであったろう。
戦国北条氏・五代菩提寺・・・・・箱根早雲寺
早雲禅寺
戦国大名・北条氏五代墓所・・・・・箱根湯本早雲寺
後北条氏五代の墓
羽柴秀吉小田原合戦・石垣山一夜城を望む
小田原城~一夜城

次回へ

令和二年・庚子・甲申・甲寅
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


歴史雑学 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<戦国北条氏・五代 | ホームへ | 戦国北条氏・五代>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する