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戦国北条氏・五代

2020.07.15(07:00) 311

*戦国大名・北条一族

**徳川家康・秀吉に従属す・・・

   その後、十月になって、家康は秀吉のもとへの出仕を決意、秀吉の本拠大阪城に登城し、諸大名列座の面前において秀吉への従属を表明した。 この家康の従属を受けて、秀吉はこれまで上杉景勝に委ねていた東国諸大名に対する取次役を家康に変えると共に、あらためて「関東・奥両国惣無事」の実現を家康に命じた。
この「惣無事令」は、秀吉が全国統治者、武家政権の首長という自覚のもと、諸大名の交戦を私戦とみなし、その停止を命ずるものである。 従って、惣無事令の受託は、秀吉への従属と一体のものとなり、秀吉従属下の諸大名は、秀吉の承諾なくしては、もはや他大名との交戦は出来ないという論理を有するものであった。

   これ迄、戦国大名が自らの領国とその「平和」を維持するために、隣接勢力との紛争を解決するための最終的裁判権として行使してきた交戦権が、統一政権としての秀吉の強い統制下に編成される事になる。
  ここに北条氏は、中央政権たる秀吉への従属か、対決かの選択を迫られた。

   天正十五年(1587)~十六年にかけて、秀吉による北条氏攻めが広く風聞され、そのため北条氏は、全領国挙げての軍勢の大動員を行ったが、 しかし、秀吉は北条氏攻撃を取りやめている。
  その後、家康から氏政・氏直父子に宛てて三箇条の起請文が送付された。 内容は、・・・・・

  ❶ 家康は氏政・氏直父子について秀吉に讒言しない、北条氏の領国についてはいささかも所望していない。
  ❷ 今月中に兄弟衆秀吉への御礼言上のために上洛させるのがいい。

  ➌ 秀吉への出仕を拒否する場合は、娘篤姫を離別してもらいたい。

   というものである。

   つまり、北条氏に対して全く他意を抱いていない事を言明したうえで、秀吉への出仕を勧告したものであった。  家康からこのような勧告を受けた北条氏は、秀吉に「何様にも上意次第たるべし」という旨の返事をした。
  これは秀吉への従属の意思の表明であり、これを受けて秀吉は、北条氏の「懇望」を認め「赦免」した。

   秀吉への従属については北条氏は「京都御一所」と表現し、「赦免」に対する御礼の言上のため、氏規の上洛が決定された。
氏規は八月十七日に上洛、二十二日に聚楽第に出仕して秀吉と対面した。  そして、二十九日に秀吉から暇を賜り、関東に帰国した。

北条早雲公馬上図・・・・・JR小田原新幹線口
北条早雲・新幹線口
北条氏政四弟・・氏規朱印   上洛・出仕  
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