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戦国北条氏・五代

2020.07.20(08:00) 312

**戦国大名・北条一族

**羽柴秀吉との全面対決

   氏規の上洛・出仕をうけ、秀吉は続いて氏政・氏直父子のいずれか一人の上洛・出仕を要請し、これに対し北条氏は、上洛の交換条件として沼田領問題の解決を要求した。
 本来この問題は、天正十年の徳川氏との同盟に際し、北条氏が上野の領有権を獲得し、自力によって帰属を図るべきものだった。

   秀吉も、この北条氏の要求については「事を左右に寄せ」たものと認識しつつも、北条氏の上洛・出仕を優先させて、徳川氏・真田氏に沼田領の割譲を指示する事にした。 秀吉は、北条氏が自力で沼田領を経略できなかった経緯を踏まえて、北条氏には同領のうち三分二のみを割譲し、残る三分一は真田氏にそのまま安堵し、北条氏に割譲した三分にに相当する替地は家康から与えると裁定した。

   天正十七年(1589)六月、氏直はその内容に「具に得心」した旨と、この了承をうけて十二月に父氏政が上洛する旨を秀吉に言上した。  秀吉は北条氏の返答を受けて、上使を派遣して沼田領の割譲を実行、七月に請け取りがなされた。 その後、沼田領支配は氏邦に委ねられ、氏邦は重臣猪俣邦憲を沼田城の城主として置いた。
 沼田領引き渡しにより、いよいよ氏政の上洛が政治的焦点となった。  ところが十月になって、沼田城主の猪俣邦憲が、真田氏に留保されていた利根川対岸の名胡桃城(群馬・水上町)を攻略するという事件が発生した。

   この報は、直ちに真田昌幸や徳川家康から秀吉のもとにもたらされ、秀吉はこれを沼田領問題の裁定に対する重大な違約行為ととらえた。   立腹した秀吉は、氏政の年内上洛が実現されなければ、来春に北条氏を追討すること、氏政の上洛が実現したとしても、名胡桃城攻略の張本人の成敗が無ければ、北条氏を赦免しない事などを周辺緒大名に表明した。
  十一月になると、北条に対し俗に宣戦布告状と称される条書を送付し、討伐の意思を示した。

   秀吉の強硬な態度に接した氏直は、来春の氏政の上洛の意思を伝えるとともに、氏政が上洛した後にそのまま抑留されるとの噂があるが配慮願いたい旨の要求し、名胡桃城については北条氏は奪取していないと弁明している。
  こうした北条氏の対応を、秀吉は上洛・出仕の拒否、沼田領問題裁定に対する否認として認識し、早くも十二月には諸大名に対して、北条氏追討の陣触を発した。 一方、北条氏もこれを受けて、秀吉との対戦を決意して、領国内の家臣・他国衆に対して、小田原への参陣を命令し、羽柴軍迎撃の為の態勢を取っていった。 ここに至って、北条氏は秀吉との全面的対決に突入していく。
小田原城箱根口・城門跡
小田原城箱根口
現在至る城下町「薬舗」
小田原宿薬舗
現在に至る城下町「まるう蒲鉾」店
まるう蒲鉾店

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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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