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戦国北条氏・五代

2020.07.25(09:00) 313

**戦国大名・北条一族

**運命の小田原合戦

   北条氏は、十二月後半から、領国内の家臣・他国衆を小田原城に入城させ、或は各地に配備して、防衛体制の整備が完了した。  秀吉軍は、天正十八年(1590)2月から各大名が出陣、3月に入って秀吉本隊が京都を出陣した。   同じ頃、伊豆三島及び伊豆・駿河国境の喜瀬川で、徳川家康・織田信雄・羽柴秀次らとの間で戦闘が行われ、小田原合戦の幕が切って降ろされた。

   三月下旬に秀吉が駿河三枚橋城(沼津市)に着陣すると、羽柴軍による本格的な侵攻が開始され、山中城が即日に落城した。  家康軍の先陣が箱根に進み、翌日には秀吉も箱根峠に進んだ。  
  さらに、家康軍は小田原城付近まで進撃し、秀吉は湯本の早雲寺に本陣を据えた。 そして、同月中旬頃には小田原城包囲陣が完成し、小田原城攻防戦は、籠城戦となった。  

   他方、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの北陸道軍は、三月ろに信濃・上野国境の碓氷峠に達し、北条軍と戦闘があり、この方面でも合戦が開始された。 また、浅野長吉や家康配下の軍勢からなる東海道軍の別働隊が小田原から東進して、相模玉縄城(鎌倉市)、武蔵江戸城(千代田区)、下総・上総の諸城を攻略し、さらに武蔵に転進した。 

   そして、六月下旬までには、武蔵の北条方諸城は攻略され、さらには韮山城、津久井城も開城して、北条方の需要拠点は軒並み攻略され、本城小田原城のみが残された。
  小田原城は、四月中旬から籠城を強いられていた。 秀吉はそれ以前に向かい城として石垣山城(小田原市)の構築を進め、五月中旬には石垣が竣工している。 その後、六月下旬には建築物も完成をみて、同地に本陣を構えた。

*石橋山城・・・・羽柴秀吉一夜城

   一方の北条氏は、周辺の戦況も悪化の一方を辿っていたため、氏直は羽柴方との和睦を本格的に模索しはじめた。  仲介は徳川家康と織田信雄が務めた。   信雄の家臣岡本利世が、氏直側近の垪和豊繁の手引きによって城内に入り、氏直と対面している。  その後、信雄の家臣滝川雄利と秀吉の家臣黒田孝高が使者として城内に派遣された。
 その後、氏直は仲介者の勧告に従って秀吉への「出頭」に「同意」し、手筈を整えた。  数日後には、ついに氏直は弟氏房と共に城を出て、滝川の神所に投降した。 そこで氏直は、滝川・黒田を通して秀吉に対し、自らの切腹と引き換えに城兵の助命を嘆願した。 秀吉はこの申し出に「神妙」と感嘆しながらも、徹底抗戦した城兵をすべて助命する「法度」はないことを理由に、合戦の責任を氏政・氏照・松田憲秀・大道寺政繁の四人に負わせて、彼らに切腹を命じた。
秀吉・小田原合戦時最初の本陣・・湯本早雲寺
早雲禅寺
小田原城から一夜城を望む
小田原城~一夜城
北条氏政・氏照兄弟の墓  JR小田原駅付近
北条氏政・氏照墓

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令和二年・庚子・甲申・己巳
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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