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近世都市への転換

2020.08.05(07:00) 315

**小田原藩

**初代城主

   小田原合戦の終盤、天正十八年(1590)6月までには、関東・奥両惣無事の責任者とされた徳川家康の関東への国替えは決まっていたとされる。 秀吉の腹づもりとしては当然の流れである。
 北条氏が降伏し、小田原城に入った秀吉から家康の江戸移封が公表され、併せて家康の重臣大久保忠世が小田原城主に指名された。 その際、忠世は家康から城周の所領四万石を預り、さらに秀吉から五千石を加増された。 直後、忠世の嫡子大久保忠隣も武蔵・羽生領(二万石)を拝領したので、親子で計六万五千石を領有する事になった。

   大久保氏は三河時代より松平家に仕える古参の家臣で、碧海郡上和田郷(岡崎市)を本貫の地とする。忠世は忠員の嫡男として生まれ、天文十五年、渡河原の戦いで初陣を飾り、弘治元年(1555)、松平竹千代(家康)の手勢が今川義元軍の先鋒として蟹江城(蟹江町)を攻略した際の戦攻者「蟹江の七本槍」には忠員ほかその子忠世・忠佐ら大久保一族が名を連ねた。

   その後、家康は西三河の一向一揆を相手に苦戦するが、これを平定し、三河に於いて大名としての地位を確立する。 さらに、今川氏の去った遠江国を武田氏と奪い合う状況の中、居城を岡崎から浜松へと移した。その後、武田氏が滅亡し、駿河・信濃・甲斐を含めた五ヶ国を領有することになる。

   小田原を任された忠世は当初、元北条家臣山角氏の屋敷に住居しながら、早速小田原城の修築に取り掛った。入生田など早川筋や久野などから石材を調達して本丸廻、内・外堀などの石垣普請に取り掛った。 それは、伊豆石を搬入しての江戸城の築城にも先立つものであった。 後年、稲葉氏が建造する外堀の切り石による石垣の下から発見された、玉石積の石垣がその一部と考えられる。  北条氏の堀(障子堀)と土塁を防御の基本とする小田原城は、その戦国期の城域をベースに、石垣造りの近世的な城郭へと変貌を遂げる事になった。

   二重櫓のの天守が後北条時代よりあったと推定されているが、忠世、ないしは忠隣の時代、その上に石垣を伴った三重の天守を築いた可能性がある。  昭和になって現在の天守を築造するため天守台を掘り下げた際に、その下から古い野面積の天守台石垣が発見されており、その事を推測せしめる。 また、小田原城の本丸御殿は北条時代の物を当初家康も御殿として利用したようだ。
  だが、北条時代よりそのまま小田原城にそのまま現存する生き証人は本丸七本松の一本(クロマツ)のほか、二の丸のイヌマキ、ビャクシンたち巨木だけである。
初代小田原城城主・大久保忠世公墓所・・・・・小田原・大久寺
大久保一族・墓所
大久保一族菩提寺・大久寺
大久保一族菩提寺
伝・城門礎石・・・・・・小田原城内
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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