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近世都市への転換

2020.08.15(08:30) 317

**小田原藩

**徳川直轄の小田原城

   家康は東海道の宿駅や傳馬制度を整え、主要な街道や往還沿いの各所に御殿をもうけていく。そして、家康や秀忠は出陣の際に限らず、東西の移動に際して小田原城本丸御殿を宿所とする事を常とした。
 慶長八年に将軍となった家康は、僅か二年で将軍の座を秀忠に譲り、かつての居城・駿府城(静岡市)を隠居所とした。

   大御所と将軍による二元政治の最中、江戸・京都との往復だけでなく、頻繁に関東各地を鷹狩りで訪れた。 そうした際の宿泊所の一つが小田原城であった。 放鷹は家康にとって軍事訓練と民情視察を兼ねたものであった。
  二元政治の秀忠政権において、関東を中心とする領国経営は大久保忠隣と本田正信の二人に任されていたと言って良い。 しかし、家康の外孫(奥平信昌娘)を妻とし、将来を嘱望された忠常が病没すると、忠隣は病床に伏せる事が多くなり、本田正信との間に確執を深めていく。 本田正純(正信・子)の与力岡本大八が引き起こした収賄事件が、その溝を一層深めた。  さらに、忠隣の養女を無断で倅の嫁にした罪で、常陸牛久藩主山口重正政が取り潰される事件が起きた。
 こうした身内の厳罰・極刑に接した忠隣が将軍秀忠の元への出仕を滞らせたため、家康・秀忠・正信との意思の疎通を欠くことになる。 そうした状況で家康・秀忠は、小田原城を接収し、北条氏の遺物ともいえる大外郭を破棄したと言われる。 なお、この忠隣の改易理由を公儀御法度に叛いたからと解釈されがちだが、大名らの御法度を定めた武家諸法度はまだ発令されていない。 

   忠隣は京都所司代板倉より改易の奉書を受け取ると、僅かの家臣を従え、配流先近江国(滋賀県)に向かった。 小田原城・領地は収公されたが、別途五千石の知行が保証された。 その直後、配所から小田原の若宮八幡宮に奉納した願文で忠隣は無実を訴えている。 忠隣の子や孫たちは縁座の対象となり、それぞれ蟄居・謹慎となった。 また、とばっちりを受けたのが忠常の長女を娶っていた里見直義で、安房舘山12万石から伯耆倉吉3万石へと減転封となり、外様大名を関東から追い出す口実を用意することになった。

   接収された小田原城は幕府の直轄となり、しばし番城となった後、大阪夏の陣後の元和元年(1615)から旗本の近藤秀用が小田原城代として小田原城の守衛を任された。 その後、幕府奏者番の阿部正次が小田原で二万石を加増され、上総大多喜から小田原に入封し、小田原藩が復活する。
  この年に、箱根山中の芦ノ湖畔、東海道に沿って箱根宿が新設され、箱根関所が置かれる。 「 入り鉄砲に出女 」を取り締まり、東海道に於いて浜名湖畔の新居(今切)関所と共に重要な関所とされた。  当時、箱根の東西、それぞれ一番近い地域である小田原と沼津には大名が配置されていなかった。つまり、箱根関所で万一の事が有った際駆け付ける兵力を確保する為に小田原藩が復活したのである。
何処で使われたのか??城の石材
城・石材
江戸期の町名を残す・・
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江戸期・町名
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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