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近世都市への転換

2020.08.20(07:00) 318

**小田原藩

**小田原藩再び消滅

   しかし、新将軍家光の誕生を機に実施された幕閣の人事異動をきっかけに阿部正次は岩槻(さいたま市)に移封し、再び小田原藩は消滅する。  その後は経験を買われて近藤英用が再度小田原城代を拝命した。
  枢要に位置する小田原城に、すぐに後釜の大名が指名されなかったのは謎であるが・・・??
  一番の理由は、家光の弟徳川忠長が駿府藩(50万石)を復活させたからである。 理由はもう一つあった。将軍職を継いだ家光が摂関家の鷹司家より孝子を正室に向かえたからである。 この為、江戸城本丸から大御所秀忠が西丸に移り、入れ替わりに西丸から将軍家光と孝子が本丸に入った。もし、家光と孝子の間に男子が生まれたならば、生まれながらにして徳川将軍家を継ぐべき嫡孫となるので、大御所秀忠も早晩西丸を明け渡さなければならなくなる。 これをきっかけに秀忠の隠居城探しが始まった。 家康が隠居時に入った駿府城には忠長が入っていたので、城主の居ない小田原城がその候補に上げられた。

   結局、大名たちに大規模なお手伝い普請が予想された大御所小田原隠居所計画は幻に終わり、秀忠は江戸城西丸に居ながら大御所政治を続けた。 計画が中止されたのは、何の事は無い、家光に子供が出来ず、秀忠が西丸から出て行かずに済んだだけのことである。

**関ケ原後

    関ヶ原の合戦で小早川軍の徳川軍への寝返りを成功させた立役者の一人、稲葉正成と福(家光乳母・春日局)を父母にもつ稲葉正勝は、家光のお七夜にあたる慶長九年(1604)七月二十三日、その小姓として召し出され、500石の齋地と20人扶持を拝領した。 弱冠八歳で直臣旗本の仲間入りである。その後、御小納戸、御歩行頭、御小姓組番頭、を経て、元和七年御書院番頭に出世し、知行も1500石を加増された。

   三代将軍となった家光は正勝に3000石を加増し、奉行職(年寄・老中)に任じた。 この抜擢は将軍家光による幕閣最初の人事であり、これにより正勝も国政に参加することになる。  翌年には知行を加増され、遅ればせながら大名(常陸柿岡藩一万石)の仲間入りをする。 さらに、下野国佐野で一万石を加増され、さらに父正成の遺領下野真岡藩二万石を相続し、真岡藩四万石の藩主となる。
  寛永九年(1632)正月、大御所秀忠の死去を契機として二元政治が終わりを告げ、幕府組織の大改革が始まった。そうした中、計八名いた年寄衆のうち、将軍家光は一番新参の稲葉正勝を取り立てて行く。 まず正勝は、江戸屋敷を江戸城二の丸に拝領した。 江戸城丸の内に屋敷があったのは、当時古参年寄りの酒井忠世と酒井忠勝だけであったから、彼らと肩を並べるまでに地位が上昇した事を意味した。

   さらに、「御代始めの御法度」とも呼ばれる将軍大権発動による大名の取り潰し策により、肥後熊本五十四万石の外様大名加藤氏が改易となり、熊本城受け取りの上使衆の一員に急遽正勝が加えられた。 上使軍を率いて肥後国の国政を沙汰し、合わせて中国・九州を幕閣の目で視察するという職務をつつがなく成功させた事は正勝の大きな実績となった。

   次に、甲府に蟄居中の忠長(家光弟)が上野高崎藩に預けられ(幽閉)、これにより駿府藩が消滅しる。 この忠長改易も「御代初めの御法度」とみなせるであろう。  直後の十一月、稲葉正勝の小田原城(八万五千石)拝領が公表された。  この時期、大加増を受けたのは正勝だけで、再び小田原藩が誕生した。
小田原城・銅板門
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銅門(赤金門)
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令和二年・庚子・乙酉・乙未
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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