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近世都市への転換

2020.08.25(09:00) 319

**小田原藩

**小田原藩再復活

   家光は、なぜ側近稲葉正勝を小田原に配置したのか。 まず、この頃、家光には子が居らず、二元政治のための隠居城は必要なかった。 そして江戸と京都・大阪の間にあった家門の駿府城が消滅した。 この二点を考慮しての事だろう。
 御三家と肩を並べる駿府城を任せるに足る人物は、この段階では見当たらない。 となれば、駿府藩なしでの新たな江戸の防衛体制を組み立てなおす必要がある。 すでに前年から幕府は関東を囲繞する御要害地の調査を実施しており、箱根から碓氷を結ぶ関東山間と、利根川・江戸川とを防衛線とする関東御要害構想の検討が進められていた。 であるから当然のごとく、正勝が小田原城を拝領した際に、あわせて関東第一の要害である箱根の関所他四関所の警固が任された。 つまり、関東御要害を守る要の小田原城に将軍子飼いの年寄職を配置して江戸の藩屏としたわけである。

  事実、正勝は早速小田原城の縄張りをし直し、城郭整備に取り掛った。  そうした最中、相模、伊豆地方をマグニチュード7クラスの大地震が襲った。  内陸直下型の地震と考えられる。小田原城下の町衆・武家屋敷も被害を受け、家中の死者だけで237人を数えた。 城下町人の死者数は数えきれない。城も甚大な被害を被った。

    翌年に家光の上洛が予定されていたため、往路・復路の将軍御座所ともなる小田原城本丸は幕府の肝いりで迅速に再建される事となった。 天守を始め本丸御殿、本丸廻の石垣等については、幕府御作事奉行に任命された酒井忠知ら指揮官の許四万五千両の公費で、突貫工事が進められた。  藩庁たる二の丸屋形と迎賓館の役割を有する御花畑の茶屋は小田原藩稲葉家が一万七千両の経費を投入して完成させている。

   この寛永地震の復興過程で城下にも整備事業が施され、後の小田原城下町の基盤となる町割りが完成する。 新宿町から大手前まで新たに御成道を通しその沿道にあたる唐人町の町衆を移転し武家屋敷地としたり、板橋口(上方口)付近の寺社地の整理、下級家臣の為の割屋敷や足軽長屋の増設などが、急速に進められた。

   関東御要害構想の要は、やはり小田原藩にあったと言える。小田原城本丸に公儀(将軍)の御殿が改築されると共に、新たに御用米曲輪にには城詰米五千石が兵糧米として備蓄されることになった。 後に八千石に増量されるが、その量は江戸城に次ぐものである。合わせて城付きの武具として甲冑1000領余・鉄砲1300挺余・槍900本等が備えられ、、天守・櫓・土蔵などに置かれた。

   地震から一年後、以前より健康に不安のあった稲葉正勝は寛永十八年正月、病没する。 まだ、三十八歳であった。 残されたのは元服も済んでいない鶴千代(十二歳、後の正則)であった。 しかし、祖母春日局を悲しませないようにとの将軍家光の配慮から正則の家督相続がすぐに許され、稲葉家の江戸上屋敷は二の丸から西丸下に移された。 といっても、西丸下も大手前・和田倉門内とともに現役幕閣大名・旗本や家門大名の屋敷拝領地であるから、やはり別格扱いだったといえる。
小田原早川口・板橋(付近の寺社地)の復興
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春日局菩提寺・紹太寺
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