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鎌倉北条氏

2017.01.28(20:00) 32

**幕府内部の対立

*鎌倉幕府の実質的な主導者へ

比企氏を滅ぼした北条時政は,十二歳の千幡丸を将軍とし家督を継がせました。そして三代将軍・源実朝を名乗りました。   時政は、大江広元と並んで幕府政所の別当に就任、初代執権(situken)となったのです。

比企氏を滅ぼした北条時政は、将軍実朝を名越邸に預かり、後見人として鎌倉幕府を主導しました。  この政権は、将軍の生母として強い権限を持つ北条政子との間に信用関係が成り立っていて初めて安定する政権でした。しかし、時政の正室牧氏と北条政子・義時との間は北条氏の嫡子に関しての争いがあった。
源頼朝の腹心として政権運営を学んできた義時なのか、正室の子政範(masanori)なのかは、微妙な所がありました。    義時の本領が北条氏邸跡から見て狩野川の対岸にある江間であることから、義時は早くから分家を興していた可能性高いと思う、しかし時政と牧氏の間に出来た政範が早世したのです。

 同じような時期に、武蔵の御家人・畠山重忠(sigetada)に謀反の嫌疑をかけて攻め滅ぼした二俣川合戦が起こりました。
この事件は、武蔵国の統治をめぐる北条時政・平賀朝雅(tomomasa)と畠山重忠との意見対立に、愛児政範を亡くした牧の方の妄執が重なって、本来ならそこまで発展する可能性が低かった争いが大きくなった事件と思われる。
事件後、北条時政は畠山重忠を滅ぼす必要があったのかという北条義時・北条時房(tokifusa)・三浦義村の強い譴責にあい、妻と共に伊豆・北条に引退して出家を遂げました。

*執権・北条義時の誕生

時政が失脚した後、北条義時が家督を継いで執権に就任。   和歌好きの三代将軍実朝は温和で、義時を叔父として遇したので、将軍と執権との仲は良かった。 二人の間に尼将軍北条政子がいた事も、幕府に安定をもたらした。
義時の政治の基調は、東国武家政権の安定強化でした。 また義時は、父時政とは反対に、源平の合戦では西国遠征にも従軍して多くの東国武士たちと苦難を分かち合っていた。 その様なこともあって、義時の政治は多くの幕府御家人の支持を受けていたので、幕府は安定していた。

駿河以西の東海道の宿駅に、夜昼の別なく御家人を結番勤務させて、旅人の安全を図った。  また諸国の守護地頭に命じて、諸街道に宿駅の設置を命じたりもしている。

武家の首都としての鎌倉の整備、地頭御家人の権益の保全など、義時の政治は頼朝政治によく似ています。 しかし頼朝に見られる京都への妥協的態度は、義時には乏しかった。 義時は頼朝政治の一番弟子ではあったが、ある意味で師の頼朝を超えていたかも知れません。

大倉御所から離れた名越に住んでいた時政とは違って、義時は御所に近い小町に居を構えた(現・宝戒寺)将軍の近くに住んで積極的に頼朝政治を学ぼうとする意欲の表れかも知れません。
鎌倉幕府執権小町亭跡 (現・宝戒寺)・・・萩の寺として知られる  (鎌倉市・小町)
北条氏・執権邸跡

*北条義時・女性関係と子供たち

こうして義時は、頼朝政治を眼前に学んだのであるが、女性関係でも頼朝を見習ったらしい。  義時の女性関係も、決して少なくはなかったらしい。
嫡男・金剛丸(のち泰時)(yasutoki)を生んだ幕府女官・阿波の局(awanotubone)は、直後に亡くなっている。 以降の史料が無く、実家なども不明である。  次の相手は比企朝宗(tomomune)の娘姫ノ前(himenomae)で、これまた女官であった。  この女性がなかなかの美女で、義時が二年にわたって艶書を送ったが、なびく気配は無かったらしい。  これを見た頼朝が仲介に立って、 「生涯、離別を致すべからず」 という起請文を義時にかかせた上で、二人を結婚させたと云う。  義時30歳。
そして建久四年(1193)に次男朝時(tomotoki)、翌年に三男重時(sigetoki)が生まれる。それぞれ、名越流、極楽寺流の初代となる。
しかし頼朝の死の前後の頃から、北条氏と比企氏との間に対立が生じ、この間の姫ノ前の消息が全く判らない。  次に義時の妾になっていた伊佐朝政(tomomasa)の娘が、四男有時を生んだ伊具流である。
元久二年(1205)、伊賀朝光(tomomitu)の娘伊賀ノ方(iganokata)が、五男・政村(masamura)を生み、次に六男実泰(saneyasu)が生まれる。 それぞれ、常盤流・金沢流を称す。  その他の系図によっては何名かの男子の名がみえるが判然としない。

女性運に恵まれたとは言い難い義時だが、子息には恵まれたといってよいだろう。 嫡男・泰時は執権政治の確立者であり、次男朝時・三男重時なども、出色の人物だったようだ。

*泉親衛の乱

小事件が起きた。   甘縄の千葉館に投じていた僧・阿静房安念(ajiyoubou・annen)を千葉介成胤(sigetane)が捕えて義時の許に突き出したのが、事の発端だ。
安念の白状で、事件が判明した。信濃の住人・泉親衛(tikahira)ら130人もの武士が、前将軍頼家の遺児千手丸の将軍擁立を図っていたのである。 安念は与党の一人青栗七郎の弟である千葉介成胤を味方に引き入れようと試みたが失敗したようだ。
陰謀が判明すると、幕府の追捕の手は早かった。  すぐに諸国に早馬が飛び、各地で与党の面々が捕えられ鎌倉に送られた。
信濃・上野の武士が多く、木曾の残党が中心だったようだ。 
      次回に続く

丁酉・壬寅・乙卯
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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