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近世都市への転換

2020.09.15(09:00) 320

**小田原藩

**稲葉期の小田原藩軍役

   さて、若くして家督を相続した正則は、幕閣への参加と、関東御要害構想の要の城の経営をどのように勤めたのかを検証してみよう。

   島原への出兵など戦場への出陣こそなかったが、まず、将軍の日光社参への供奉や将軍に代わっての代参・上使があった。例えば、家光の日光社参に正則は随行を自ら希望し、その願いは叶わなかったが、翌年家綱の社参に供奉し跡押さえを担当している。また、幕閣クラスの家門・譜代大名は、当主が幕閣の要職についていない時、江戸城の大手三門の警衛番などを交替で務める義務があった。 稲葉氏も内桜田門番や城中紅葉山の火の番等を務めた。   将軍が寛永寺や増上寺への参詣の為出城する時、沿道の警固役を務める事もあった。 これらの番役は旗本直轄軍のみならず、幕府軍の中核が家門・譜代大名であった事を物語っている。

   小田原藩の固有の軍役としては、小田原城、及び箱根関所など要害の番役が挙げられる。 とくに箱根関所では大名らの携帯する鉄砲・槍の数を管理し、規定以上の武器の通過を制御するとともに、武家女性や事件首謀者・犯罪者らの通行を厳しく取り締まった。 箱根要害における関所破り防止は勿論のこと、江戸城周辺に事あるたびに、各関所、要害には加番の人数が増員され、警固を強化することになっていた。
  将軍の軍事統帥権の発動という側面からみれば、大名の参勤交代や首都江戸の大名火消し役、さらに各江戸藩邸の日常的な警備などは、国元からの兵力移動を伴う点からも広義の軍役であったと言える。

 軍役以外では、お手伝い普請として、江戸城の諸門・石垣の普請役を度々務めた。 又、災害時には小田原城の修築、箱根・熱海の将軍家用御殿や各関所の修理、東海道の道橋維持の為の普請も担当した。 こうした普請に領内の農民・職人が動員されるだけでなく、稲葉氏は知行取家中や足軽たちにも「役人」と呼ばれた人足役をを負担させ凌いでいる。
   さらに、特徴的な役負担として石材の献上御用が挙げられる。 領内の風祭・根府川・岩・真鶴などで良質な石材が産出したため、江戸城の石垣のみならず、寛永寺紅葉山の仏殿や禁中御庭造営用にも献上された。

  領内村の統治に関して、稲葉氏は、すでに幕府領で導入されていた五人組制度を採用するとともに、各村に名主を補佐する組頭役を置いた。 治安維持や年貢・夫役の村請制を補充する為である。 しかし、家中の地方知行制は全面的に廃止され、、藩士全員が蔵前知行取となり、家中の在地性は完全に否定された。 これは、この時期加増・転封の多い家光期幕閣譜代大名に共通する方針で、近世大名として兵農分離を決定づける施作であった。

   寛永年間になると、町人請負型の新田開発が見られるようになる。 中でも箱根用水は、箱根外輪山にトンネルを堀り、芦ノ湖の湖水を駿河国側の喜瀬川筋に通し、一帯の畠地を8000石の田地にしようとする一大事業であった。 深良村(裾野市)大庭源之亟を発起人に、江戸の商人友野与衛門ら四人の町人を元締めにして、小田原藩と幕府代官野村彦太夫に出願された。 工事が進められどうにか完成するが、出願町人たちの自己資金三千七百両では足りず、幕府に願い出て公金六千両を拝借し、どうにか開発を成功させた。

   後期家綱政権期のこの時期、関東周辺での大規模新田開発に公金支出が集中しており、その背景には首都江戸の危機管理政策があったと考えられる。
小田原城
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