FC2ブログ

タイトル画像

鎌倉北条氏

2017.02.01(15:35) 33

**幕府内部の対立

*義盛・挙兵

与党として捕えられたうちに、和田義直(yosinao)義重(yosisige)の兄弟と和田胤長(tanenaga)もあった。 源平合戦以来の勇将和田義盛(yosimori)の子と甥である。  将軍実朝の信頼が厚かった和田義盛の一族が、実朝の廃立を図る陰謀の与党だったというのも、全く不自然であるが?・・・・・。
和田一族戦没地 (鎌倉市・由比ヶ浜)・・・・江ノ電・和田塚駅下車
和田塚ガイド
もしかしたら、泉親衛(tikahira)の陰謀と云うのは、北条義時の画策した陰謀だったのかもしれません。
当時義盛は上総国伊北荘(ihoku)にいた。 急を知ると鎌倉に戻り、将軍実朝に面謁し、積年の勲功を申し立て、二子の赦免を乞うた。これはすぐに許された。 しかし残る甥・和田胤長の赦免は許されなかった。
 
幕府内の対立について、少々記しておこう、相模武士団の代表である三浦氏と、伊豆武士団の棟梁的存在となった北条氏との間に、少なからず対立があったことは、先述してありますが、・・・三浦氏では義澄(yosizumi)から義村(yosimura)、そして北条氏では時政から義時と、それぞれ代はかわっていたが、この暗黙の対立は続いていた。
三浦一族の中からは、和田一族の自立化が進んでいた。 和田義盛が侍所別当に任じられて、三浦義村を含む幕府御家人全体の管理権を握ったことが、原因だったかもしれない。  いずれにしても三浦義村と和田義盛との間にも、若干の隙間が生じていたらしい。    これに目を付けたのが、義時である。  和田胤長が泉親衛事件に連累していたことを知ると、これを機に義盛の挑発を図ったのである。

鎌倉武士の社会では、罪があって没収された所領は、同族に返付されるのが慣習だった。  だから義盛は、没収された胤長館(荏柄天神前)の返付を実朝に願い出た。 これはすぐに許されて返付された館に、義盛は郎党を住まわせた。
直後、実朝の許可は撤回され、旧胤長館は義時に与えられた。   またまた恥辱を蒙った義盛は、やがて綿密な作戦計画を立てた。 その眼目は義時を倒す事であって、将軍実朝に対する謀反ではないという事だった。 むしろ将軍の身柄を和田側で握っておけば、これに抵抗する北条軍こそが、謀反人という事になる。  日和見をしている一般御家人も、和田側に味方するはずだ。
挙兵は、5月3日と決まった。  その日の早朝、義盛の妻の実家、武蔵横山荘(八王子市)の横山党が、秘かに鎌倉入り、義時館と大倉御所との間に布陣する。 義時を御所に入れない作戦だ。
幕府が最初に造営した御所・・大倉御所跡 (鎌倉市・雪ノ下3)
大倉幕府跡石塔



一方、与党の三浦義村は、自館から東に向かい、北御門から御所に入って、将軍実朝の身柄を自軍側に擁する作戦だ。すべては順調に進んだかに見えたが、ここで裏切りが発覚・・・・・・。

三浦義村が裏切って、すべてを義時に知らせていたのす。 義時は5月3日に横山党が鎌倉に攻め入ることを承知し、前日の内に開戦と決め、自分は大倉御所に入り、嫡男泰時の軍に和田館を攻めさせ、和田勢をおびき出し、和田勢が御所に攻撃をかけるように仕向けたのである。
いずれにしても和田勢は、義時の作戦どおりに動いた。  義時が御所に詰めているのですから、御所を攻めざるを得なかったのです。   しかしその一挙で、和田勢が反乱軍になったのです。

それにしても和田勢は強かった。  義盛の三男・朝比奈義秀(yosihide)は、勇猛でした。  攻撃に転ずるや御所に攻め込み義時が御所に隠れているものと思い込み、御所内に火を放つ攻撃を行った。
しかし、義時は、すでに将軍実朝を擁して、大江広元と共に頼朝法華堂に難を逃れていた。 和田勢は将軍の身柄を確保するのに失敗したのです。 これで事は決した。 形成を見極めていた一般御家人たちも、一気に北条方に加わってきた。

一夜が明けた5月3日、寅の刻(午前4時)ころ、当初の作戦どおりに横山党が鎌倉に入ったが、形勢は逆転しておりなす術はなかった。  それでも和田勢は横山党の来援で士気も回復し、再度攻撃に出ようとした。
しかし、大江広元・義時連署の軍勢催促状が、武蔵国などにも発せられ、これに応じた御家人たち鎌倉入りした。 多勢に無勢だった。 やがて和田勢は由比ヶ浜に追い詰められ、現在の和田塚周辺で敗れた。
その結果、北条氏の獲得した成果は、極めて大きかった。

*北条氏が獲得したもの

直接的には大族三浦氏の勢力を二分して、その一方を打倒したという事です。  また和田義盛の職であった侍所別当に、義時が就任したという事も大きかった。  幕府の三官衙のうち、義時は政所・侍所の両別当職を得たのである。
案外目立たなかったのは、山之内荘(北鎌倉)と六浦荘(横浜市・金沢区)とを義時が手に入れた事です。 ともに鎌倉に隣接していたので 「いざ鎌倉」 という時に自軍を投入出来る位置にあったからです。 次回に続く

丁酉・癸卯・己未
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


興隆と滅亡 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<鎌倉北条氏 | ホームへ | 鎌倉北条氏>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する