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鎌倉北条氏

2017.02.05(09:30) 34

**長期安定政権へ

*執権・連署

この事件の後、三代将軍実朝の母北条政子と政所の執事北条義時が鎌倉幕府を主導する長期安定政権が成立します。
この政権は、建保元年(1213)の和田合戦で和田義盛とそれに味方した横山介時兼(tokikane)以下の坂東の御家人たちを滅ぼし、相模・武蔵国で独立勢力として残ろうとした武士たちを一掃した。

鎌倉幕府の首脳部の中で、京都から下ってきた文官・源氏一門・北条氏は諸太夫の社会階層に属し、国守や寮の長官などの官職を任じていた。 侍所別当和田義盛のみ、三浦氏の分家と云う家柄から左衛門尉の官職にとどまっていたので、上総介への推挙を希望しました。これは、侍の身分から諸太夫の身分への昇格を希望したものでしたが、北条政子によって拒否されました。
北条氏と和田氏との間に明確な身分の相違があることを見せつけられた和田義盛が不満を抱いたところに、北条氏は泉親衛事件で和田氏を挑発し、和田合戦へと追い込んだのです。
和田氏を滅ぼした北条義時は政所別当と侍所別当を兼務し、侍所の所司に義時の被官を任命したことで鎌倉幕府最大の勢力であることを示しました。  しかし、義時の立場は将軍源実朝とその母君北条政子に仕える官僚組織の主導者で、執事の地位を超えたものではありませんでした。 時政・義時を執権に数えるようになったのは後代の事です。

*実朝暗殺

和田合戦後、実朝の表情が憂鬱になっていた、官位の昇進を望んだのである。    さらに大船(oofune)の建造を宋人・陳和卿(tinnakei)に命じたりしたが、しかし造営した船は動く事は無かった・・・・・。

承久元年(1219)正月、右大臣拝賀の為鶴岡八幡宮に詣でた将軍実朝が、頼家の遺児で同宮別当になっていた公暁(kugiyou)に暗殺されたのである。 直後、公暁自身も討たれたので、源氏将軍家は三代で断絶したことになる。  この時義時は、御剣役として供奉していたが、直前に心神違例して、源仲章(nakaaki)に交替して退出したと、「吾妻鑑」 に記されています。  その仲章も、実朝と共に斬られて亡くなっている。
実朝・仲章暗殺の現場となった鶴岡八幡宮本殿下
八幡宮本殿

実朝の後ろを歩いていた仲章が、義時だと誤解されて斬られたのだと云われる。  しかし後世では、公暁の陰謀を事前に察知した義時が心神違例を装って、御剣役を辞退したのだと解釈されたり、義時が公暁をそそのかした事件の黒幕とまで言われました。
より信憑性のある 「愚管抄」 (gukansiyou) では、門をくぐろうとしたとき、実朝が義時に、「中門にとどまれ」 と命じたので、義時は、一時ほども中門にとどまっていたのである。

後の義時の子孫たちが 「吾妻鑑」 を編纂したとき、先祖の哀れな姿を書くにあたり、心神違例などと曲筆したため、かえって誤解され黒幕説まで生んでしまったと、思われます。

次の将軍の候補として河内源氏の一族は否定され、新しい鎌倉殿として摂関家のひとつ九条家から九条道家(mitiie)の子頼経(yoritune)を迎えることになりました。 それに伴って、源家将軍一族の粛清が行われ、駿河国で阿野時元(tokimoto)(頼家の甥)が謀反の嫌疑をかけられ自害,京都では仁和寺の僧・禅曉(zengiyou)(頼家の子)が東山で誅殺され、最後に残った貞曉(jiyougiyou)(頼朝の子)も自ら目をつぶして謀反の意思がないことを示した。

将軍家が武家の棟梁である源家から、摂関家の分家となる摂家将軍に交代したことにより、鎌倉幕府に大きな変化が起こります。源家将軍と御家人たちとの間には、武家の棟梁と家人と云う主従関係がありました。しかし、将軍家が摂関家となると、将軍家が戦場に出て合戦をしたり、鷹狩り(軍事演習)を行ったりという事が無くなり、人々のつながりは将軍御所の儀式等が中心となりました。

将軍家と共に鎌倉に入った廷臣(teisinn)や僧侶・陰陽師は、鎌倉の将軍御所に摂関家の儀礼と禁忌(kinki)を導入し、将軍家と御家人との関係は組織の命令系統による上下関係という官僚制の原理が強くなりました。 鎌倉幕府の中の人のつながりが、主従関係にもとずく人の関係から、組織運営のための官僚制的な秩序が中心に切り替わっていくと、文書による政務の運営が中心になっていきました。

北条氏が将軍家の命令を受けて政務を執行する執権・連署(situken)・(rensiyo)といった役職を整備したのも、将軍家の制度上の後見人として鎌倉幕府を主導する行政上の地位を明確にするためでした。 摂関家出身の将軍家は、鎌倉幕府を守護する神仏との交感(koukan)や神事・仏事といった宗教儀礼の主催者の役割が強くなり、神聖な存在に昇華していく方向に向かいました。

今日の政務に相当する世俗の仕事や軍事や凶事は執権・連署が代理として行う仕事となり、北条氏に委ねられました。 将軍家が神事・仏事・儀礼と云った政事(maturigoto)を分担し,執権北条氏が世俗の事を分担する政治体制が執権政治なのです。
鎌倉八幡宮・二の鳥居・・・・・段葛石塔
二の鳥居
段葛
次回に続く

丁酉・癸卯‣癸亥
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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