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鎌倉北条氏

2017.02.09(16:29) 35

**長期安定政権へ

*承久の乱

承久三年五月、大事件が起きた。  後鳥羽上皇が院宣を発して、全国に討幕を命じたのである。
このことが鎌倉に伝わるや、幕閣は若干動揺したようだ。 専守防衛か、上洛出撃かで意見が分かれたが、大江広元・三善善信(yosinobu)らの意見が採択され、尼将軍・政子が御家人らを集めて熱弁を振るった。 三道からの出撃・上洛と決した。

東海道軍の指揮は、和田合戦で手腕が認められた嫡男泰時と弟時房、 北陸道軍の指揮は次男朝時、東山道軍は武田、結城、小笠原、小山など混成軍だった。
このとき、わずか十八騎で最初に鎌倉を出撃した泰時は、一騎で戻り父義時に尋ねた。 「後鳥羽上皇が、自ら先頭に立っていたら、我らは如何すべきや」 天皇家を敵として戦うことの不安を、口にしたのである。  これに対して義時は、 「その時は、兜を脱ぎ、弦を斬って降伏すべし。 上皇が都におわして軍兵ばかりを差し向けらるれば、最後の一兵になるまでも、戦うべし」 と答えたたという。
鎌倉幕府三代執権・北条泰時公墓 (鎌倉市大船・臨済宗建長寺派・常楽寺)
北条泰時墓

とにかく承久の乱は天皇家を敵とした戦いだった。 しかし、幕府軍は途中で迎撃に出た京方を随所で撃破し、上皇が討幕を命じてから一か月後には、京都に攻め入り勝利した。

*六波羅探題・戦後処理

直後、北条泰時・時房が六波羅探題として、京都に駐在する事になった。  遠く鎌倉の義時からの指示に従って、二人は戦後処理を行う命令を受けた。
後鳥羽上皇は、出家して隠岐に流され土御門(tutimokado)・順徳(jiyuntoku)両上皇もそれぞれ土佐・佐渡に流された。 仲恭天皇(tiyukiyou)は廃され、後堀川(gohorikawa)天皇が即位した。  その父後高倉院(gotakakurain)が院政を布くことになった。

京方に加わった公卿・武士たちの所領は幕府に没収され、御家人たちに恩賞として配分された。  因みに、かつて五年間の源平合戦での平氏没官領は、約500ヵ所余りであったが、30日間のこの戦いで没収された京方与党の所領は3000ヵ所に及ぶ、 東国武将たちの間では、恩賞ブームに沸いたようだ。 しかし義時自身は、一国も自領にはしなかったという。

義時は、実朝暗殺事件の直後、小町館(宝戒寺)を泰時に譲って、自分は大蔵館(岐れ道)に移っている。 これに前後して、子息たちを鎌倉中の要所要所に配置する街造りを実践した。

次男朝時は、かつて祖父・時政の名越館に住んだ。  三浦半島と杉本寺を結ぶ三浦道のほぼ中央(釈迦堂口)に位置する要衝である。  朝時とその系統が名越流(nagoe)を称するのは、この名越館の故です。

鎌倉の西北で隣接する山内荘(yamanouti)(北鎌倉・大船)には、義時・泰時直属の郎党が住んでいた。 次に東北に隣接する六浦荘(mutura)(横浜市・金沢)には、六男・実泰(saneyasu)が住んだ。 後に金沢文庫が成立するので、この系統を金沢流という。
北条泰時の孫になる北条時頼の創建・臨済宗建長寺・山門 (鎌倉五山の第一位の禅寺)(鎌倉市・山之内)
建長寺・山門

こうして和田合戦、承久の乱に勝利して幕府の基礎を築いた義時は、息子たちを要所要所に配置して用心を怠らなかったが、彼の敵は別の所にもいたらしい。・・・・・・・

*北条義時の死

元仁元年(1224)6月、北条氏の地位を鎌倉幕府に強固に据え付けた執権、従四位下前陸奥守北条小四郎平義時は死んだ。六十二歳。

法名を安養寺殿得宗禅門と号すると、「吾妻鑑」 によれば、息を引き取るまで南無阿弥陀仏と唱名し続け、最後は胸の上に両手で外縛印を結んでいたと記している。
死因は、「日頃の脚気の上、霍乱(kakuran),計会す」 とある。   平安・鎌倉時代に多かった脚気は、白米の食べすぎではなく、粗食が原因の蛋白質と脂肪の欠乏であった。  そして霍乱も日射病ではなく、猛烈な腹痛、下痢、嘔吐などを催す急性胃腸炎のことらしい。・・・・
とすれば、「吾妻鑑」に記されたような端然とした往生は、不自然な表現であるが、・・・・。  藤原定家の「明月記」等に義時は、妻伊賀ノ方に殺された様な記述もあるようだ。  次回に続く

丁酉・癸卯・丁卯
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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